吉田神道の四百年については以前まとまった文章を書いています。これな。
言ったもん勝ち!後付け設定!神道を巡るおかしな興亡史…「吉田神道の四百年」 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150805/p2
- 作者: 井上智勝
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/01/11
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その時には紹介しきれなかったのですが、この「初代名古屋藩主はすごい学問好きで、名古屋は江戸時代初期学問の都だった」という話を知らなかったので、 最初に読んだときも印象に残っていました。今回ふとしたことで、再読する機会があったのでこの部分だけメモしておこうと思う。
…江戸開幕当初から名古屋は文運の地だった。先に名古屋藩初代藩主徳川義直が古い社の祭神が伝わっていないことを大いに嘆き、自ら諸文献や諸家の説を参照して考証して「神祇宝典」を編んだことを見た。序文は林羅山の手によるものだが、羅山は徳川義直の初学の師だった。駿府の家康の下で幼い日々を過ごしたよしなおは父の信任の暑かった林羅山から授業を学んでいる 。
家康の数ある子の中でも義直は特に好学で聡明な子だったようだ 。義直は、大の本好きで元和元年も16歳で参戦した大阪夏の陣の帰路、京都で論語などの書籍143冊を購入したというエピソードを残しているほどだ。天下一にして東大随一の蔵書家であった家康の旧蔵書は その死後、江戸の他、尾張の義直、 紀伊の頼宣、水戸の頼房の3子に分かたれたが、好学な義直にはその中でも特に良質なものが譲られたという。その後も義直の収集癖はやまず、およそ2万冊にわたる、質量ともに当時の国内最大級の文庫を形成した。
それ義直は、自ら著作を能くした。「神祇宝典」のほか『類聚日本紀』(略) …戦乱の余燼冷めやらぬ幕府初期に、これだけの書を編むには病室の文献を収集するだけの力と、そして素養がなければならない。義直は、そのいずれをも兼ね備えていた。その特徴は『類聚日本紀』のように良質の資料を広く吟味する文献主義と、「神祇宝典」に見られる考証主義にある。それまでの口伝や神秘主義の学問とは異質の学風であった 。
名古屋で他藩に先駆けて考証主義の機運がみなぎっていたのだ。
(略)
尾張名古屋の古代学は保科正之や徳川光圀らに強い影響を与えた、徳川義直の文治政治の一つの帰結だった。
家康の年の離れた息子がそれぞれ、尾張、紀州、水戸の御三家を作ったということぐらいは知ってるが(義直は何番目だったかなぁ)、その人たちの個性というものまでは知らなかった。
せいぜいこの種の、ひとからげなイメージ。
ので、この記述がなんとも印象に残っていた。
(伝奇的な時代劇だと、このへんの弟やその子たちが将軍の座を狙い…みたいなところで登場するようだね)
また、自分はやっぱり図書館や文庫を建設してたり、記録を残すことに熱心だった歴史上の人物にはポイント高い。
徳川義直も、そういう意味での評価ポイントを高く設定してあげたい次第です。
そういえば以前、そもそも父親の徳川家康自体もけっこうな勉強家・蔵書家だったというまとめを作ったのだった。
「勉強家・文化人」としての徳川家康〜細川幽斎との交遊などを中心に - Togetter https://togetter.com/li/974880