【コミック乱十一月号/9月27日発売】竜馬の脱藩と吉田東洋暗殺で風雲急を告げる国内情勢。一方で福沢諭吉をはじめとする遣欧使節団は、開港延期交渉のためフランスでナポレオン三世に謁見するも…『風雲児たち〜幕末編〜』、三谷幸喜氏脚本でドラマ化を控え、ますます絶好調です!(な) pic.twitter.com/AxrmlM3QUR
— 月刊コミック乱 (@gekkancomicran) 2017年9月26日
この中で、こういうエピソードを紹介している…すまぬが、画像を2枚紹介させてもらう。
どうにも画像が、不鮮明で申し訳ない(クリックして「オリジナルサイズを表示」するとたぶん鮮明です)
この、とても小さなエピソードで紹介したいのは2点です。
・「フェイクニュース」は人間社会あるところ、常に存在している、ということ。事実でなくても、一時その情報が流通し、社会が混乱すれば、それを流した側は、何かを狙ってつけ入るスキがあるということ。
・世の中に、無駄なことに興味を持ち、無駄なことに詳しい(ここでいう、日本語を独学で話せるまでになった、「日本オタク」レオン・ド・ロニーのこと)人間を「飼っている」社会は、なんだかんんだと突発事態に強いということ。
後者については、既に中国の古典がそれを余すところなく語っているけどね(笑)
『鶏鳴狗盗』書き下し文・わかりやすい現代語訳(口語訳)と文法解説 / 漢文 by 走るメロス |マナペディア| http://manapedia.jp/text/1921
http://manapedia.jp/text/1921
http://manapedia.jp/text/1921?page=2実のところ孟嘗君は、持ってきた皮を照王にあげてしまい、他の皮は持っていませんでした。食客の1人に犬のようにすばしっこく盗みがうまい者がいました。彼は(照王にあげた皮の入っている)蔵に忍び込んで皮を持ってきて、それを女性にあげたのです。女性は皮をもらえたので、照王に進言して孟嘗君たちは釈放されました。
孟嘗君は釈放されるとすぐに逃げ出し、名前を変えて夜に関所にやってきました。関所の決まりでは、(朝に)鶏の鳴いた時間から人々を通すようになっていました。孟嘗君は、秦の王が自分たちを釈放したことを後悔して追ってくることを恐れています。食客の1人に鶏の鳴きまねがうまい者がいました。(彼が鶏の鳴きまねをすると)関所の鶏たちも(それに呼応して)鳴き始めました。(これによって関所が開き、)遂に脱出することに成功したのです
この故事は、とりえのなさそうに見える人物でも、何か1つぐらいは秀でた特技を持っているものだ、つまらない能力しかないとるに足らない人物という2つの意味を持つ四字熟語、「鶏鳴狗盗」の由来になったものです。
むろん、19世紀後半のフランスで、若者に日本に興味を持ってもらうほどの文化的魅力を、徳川三百年の体制と社会が蓄積したがゆえの結果という面もある。
それにしても、たとえば今の日本で、アフリカや南米の”小国”について、それぞれに興味を持ち、ちょっとした民間大使となれるぐらいに知識や人脈を蓄積していく人は確かにあると思う。
彼らにとって、そして彼らが研究する国にとっての「文久二年」が、今後来ないとは限らないのだ。
レオン・ド・ロニーには、ウィキペディアに簡単なる略伝がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%BC
1837年4月5日、ノール県ロース(Loos) に生まれる。父・祖父共に有名な学者であった。当初植物学者を志したが、やがてコレージュ・ド・フランスで中国語の研究に没頭する。さらに、独力で日本語の研究を開始した。1854年、17歳のときに、日本に関する最初の著作である「日本語研究に必要な主要な知識の概要」を発表した。
1862年に文久遣欧使節がフランスを訪問した際にはその通訳を務めただけでなく、一行がフランスを出国した後も同行した。この間、福澤諭吉や福地桜痴と親交を重ねた[1]。しかし、1864年に横浜鎖港談判使節団が訪仏した際には、政府から日本人との接触を禁じられた[2]。使節団の正使であった池田長発は、江戸幕府がロニーを雇用することを提案しているが、これは実現しなかった。
1863年、フランス国立東洋語学校で、日本語を教え始めた。
(略)
ロニーの評価をめぐっては語学力に疑問があり、人物的にも多くの研究者と喧嘩をして晩年は大変淋しいものであった[4]。
1914年8月28日、死亡[5]。
フランスの日本研究の第一人者であったが、生涯一度も日本を訪れることはなかった。
マヤ文書に対する貢献
ロニーは1859年にフランス国立図書館でマヤ文字で書かれた書物を発見した(パリ・コデックス)。それまでマヤ文字の書物はドレスデン・コデックス以外知られていなかった。1883年にはさらに別の書物(マドリード・コデックスの一部)を発見している。
1876年に『中央アメリカ神官文字の解読に関する論考』(Essai sur le déchiffrement de l'écriture hiératique de l'Amérique centrale)を発表し、方角を表すマヤ文字を指摘した。また、月日を表す文字が音を表す要素を含んでいることをはじめて指摘した[6]。これらの指摘は正しかったが、証拠から得られる範囲を越えて憶測で解読を行ったために批判の対象になった[7]。
おもしろ悲しき何か。
同時代に新聞を騒がせた悪の英雄、アルセーヌ・ルパンと何かの二次創作で絡んでもらうかね…。