http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20151207/p1
の記事から続きます。【記録する者たち】
もうだいぶ昔、2011年の記事
若者の”寅さん”離れが深刻 http://tundaowata.com/archives/1510941.html
子どもたちの「寅さん離れ」を食い止めようと、「葛飾柴又寅さん記念館」が、区内の小学校を無料で招待する取り組みに乗り出している。
映画「男はつらいよ」シリーズの舞台となった柴又に住んでいるのに、映画そのものを知らない子どもたちが増えているといい、同館は「寅さんの温かさに触れ、人間性を育んでほしい」と期待している。今月4日、同館の入り口で、天井近くの壁に飾られた寅さんのオブジェと、足元に落ちた雪駄を興味深そうに眺める子どもたちがいた。
「『せった』って何だろう」「右左どっちなのかな」訪れたのは、柴又帝釈天に近い区立北野小学校の3年生64人。2学期の総合的な学習の時間で、先生が「地域の自慢をあげてみよう」と児童に尋ねたところ、帝釈天と並んで、「寅さん」があがった。ただ、「寅さんってどんな人?」と先生が聞くと、駅前の銅像の存在や、主題歌は知っていても、どういう人かを知らない児童がほとんど。
このため、無料招待を利用して同館で調べることにしたという。
感想より
そりゃ小中学生が寅さんなんかになかなか興味もたんやろ
2,30代でも見たことないやつ多いだろ
r ‐、
| ○ | r‐‐、
_,;ト - イ、 ∧l☆│∧ 良い子の諸君!
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、 l 若者の○○離れとよく耳にするが、
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 当時群がってたのは今のジジババ共だ!
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /| 今の若者は、離れるも何も
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | 最初から近づいてすらいないな!
│ /───| | |/ | l ト、 |
irー-、 ー ,} / i / `X´ ヽ / 入 |
とっくにオワコンだろ
延命してどうすんだよw
洗脳すんな
ははは、辛辣なもんだ。そして、寅さんがけっこう好きな自分(大ファンとはいえないだろう)としても、なかなかいいところを衝いていると認めざるを得ない。
というより山本夏彦の金言「読者は、虱に似ている。死ねば離れていく。」であって、いま同じ俳優や、同じシリーズが<続いている>からこそコンテンツというのは延命する。いったん止まったものからは、その作品の質が本当に例外的に、とびぬけて高いものだけは生き残れるが、多くのものはそこでオワコンに…なっていく。
プロ野球はまずプロ契約できる時点で一流、
一軍で活躍できる点で超一流だが
そこで「名球会入り」するレベルは超・超一流……みたいなもんですな。
「寅さん」「男はつらいよ」は、その名球会にいく資格も充分あり…というか、いまだに記念館に万の来訪者がいるだけで名球会かもしれないけど、それでも子供、若者が興味を示さないのじゃあ、先細りを認めざるを得ないかもしれない。
さて。
で、「葛飾柴又寅さん記念館」は、
葛飾区内の小学校を無料で招待すると。これは「ご当地、ふるさとを調べよう」という地域学習の一環とすれば、ありえる話かもしれない。そっちの文脈で語ればよく分かる。
ただ、それも含めて
「若者が「寅さん(男はつらいよ)」を知らなくなってきている」
「それは問題だ」
「じゃあ、学校で教えよう」
というのはね。・・・・・・・・・・・・・うむ、自分は例えば「四谷赤坂麹町、ちゃらちゃら…」「国の始まりが大和なら、島の始まりは淡路島…」「角の一流デパートは白木屋赤木屋青木屋さんで、紅おしろいつけたお嬢さんからください頂戴で…」
みたいなものをそれなりに覚えているのは、「自分の”教養”」のひとつだといささか心に誇るものはあるが、それを今の興味のない子供たちに教えなければならない、という切迫感があるかといえばない。
さっき「読者シラミ論」を紹介した山本氏は、一方でこうも書いている。
……国際化というのは英語なんかしゃべることではない。英国では誰だって英語を話す。イギリス人の冗談しゃれ会話のすべては、シェイクスピアをふまえている。一数学者が朗々と暗誦するのを聞いてそう思った。なまじ英文学をかじったなんてのはバカにされるだけだ。それより和漢の古典をしっかり読んでおいたほうが互いに友になれる。
(※と、藤原正彦が書いていたが)
読んで私はついこの間まで日本人も皆そうだったことを思い出した。主人は店の者にお前なんのために芝居を見ていると叱った。「伊勢音頭」の主人公は「身不肖なれども福岡貢(みつぎ)、女をだまして金とろうか」と言うから、見物は女をだまして金とるのが最低だと知るのである。忠臣蔵は芝居の独参湯(どくじんとう)だといわれた。私たちの冗談もしゃれも笑いも、みんな芝居をふまえていた。
大正十二年の大地震のとき、すでに火は日本橋の私の母の実家に迫っていた、店の若い衆”金どん”はつづらを背負った、その姿があんまり大時代なので店の女たちがどっと笑ったら、金どん”延若”の声色で「つづら背負ったがおかしいか」と言ったという。石川五右衛門のせりふである。
ふだんの会話のなかにかれにシェイクスピアがあるように、われに忠臣蔵以下無数の狂言があったのである。大震災を境にそれは滅びた。私たちはとり返しのつかないものを失ったのである。
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「諦念」をベースにした思考が多い山本氏だが、教養としての古典を「教える」ことについてはやや積極的にも見える。
ただ、その際に例えば『「寅さん」を見るのは教養だ』『ゆえに学校で、ひとしく教えるべきだ』というふうにどう決めるのか。歌舞伎の忠臣蔵のほうが先ではないか、いや落語だ、いや浄瑠璃だ。だからその支援をカットする橋下徹は…… みたいな話になる。
こうやってみると、「学校では何を教えるべきか」は、やっぱり神学の一種なんだろう、と思えてくるのです。
その話、当ブログはたしか格闘技ブログだったので(笑)、格闘技や戦闘術などを例にとって、こう考察してきました。
■「そもそも教育では、リスクとの兼ね合いで何を教えるべきか」について
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20101219/p2
■武道必修化の議論の続き。そも「体育」は必要か。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110607/p2
■我々には「銃という教養」が欠如している。それはいいことか悪いことか。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090130#p4
■学校教師の脱線・個人的主張授業をどうする
かhttp://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110828/p4
■腕がらみ、腕十字、フロントチョーク、脇固め、三角絞めを、学校教育で教えたら -
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120316/p2
「銃という教養」の話、年末のこの機会は絶好だから(後述)もう一度紹介してみるとしよう。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090130#p4
わたしはこうやって「いや小生、銃にはとんと疎くて へへへ」で済ませているけど、それは刀狩国家ニッポンにて平和と惰眠をむさぼっているからで、銃にからんだ暴力との対峙は国家権力に全面依存しているからだ。(その他の暴力もだけど)ただ、それがグローバル・スタンダードの中においていいことなのか?というのがテーマだ。
「アメリカ人は外国に興味なく、多数は行こうとも思わない。その傲慢さが問題なのだ」という話があるけど、日本人はかなり多くが、豊かであることもあって海外に行く。その海外で、一部は銃を持つことが合法であり、または非合法でもそれを持つことが日常茶飯事ならば、それへの対処としての「銃の知識」を我々が持っていないのは無知でもあり、傲慢でもあると言えるのでは無いか。
(略)
銃に興味なくても楽しめるアクション「ダイ・ハード」で、テロリスト(実はただの強盗団)の親分が一対一でブルース・ウイリスと鉢合わせしたとき、とっさに逃げ出した人質の一人のふりをしてウィリスを信用させる場面。
(ややネタばれ注意)
騙されたウィリスは味方のだと思ったそいつに拳銃を渡すが、親分はその銃を使って・・・と話は続くのだが、その時、ひよわなヘタレを装った親分にウィリスが「銃は扱えるのか?」
「サバイバルゲームぐらいは」
「それで十分だ、頼む」と銃を渡す場面があるのですね。わたしを含め、何人のジャパニーズが、ウィリスに助太刀を頼まれて、銃を持てるか。
(略)
少なくとも、銃には安全装置がある(らしい)が、それをどう動かせば解除できるか、なんてことぐらいは「一般教養」として知っておくべきじゃないか?と。いつも心に柘植久慶。
(略)
例えば「銃の扱い方」が客観的に見て、また日本という制限を仮に外して、君やわたし、また息子や娘が海外で暮らすというときに…それがかなり普遍的に役立つということなら、「銃の扱い方」は例えば学校で教える、べきものであるかもしれないわけですよ。
「生活科」なのか「総合的学習の時間」なのかは知らないが(笑)。
と、まあ、銃の撃ち方なんて極端な例を挙げたが、そういう意味合いにおいて「学校では何を教えるべきか」は正解のない話ではあります。
しかし、正解がないと同時に、暫定的に結論を出さなきゃいけないものでもある。
その暫定的な結論の中に「若者の寅さん離れをふせぐ」「男はつらいよを学校で見せる」は、さて入りますかどうか。
立川談志の生涯の多くを占めたのは
「このままだと、そのうち落語は、能や狂言のようになるだろう」という危機感と、それに抗うレジスタンスでした。
能狂言、とはこの場合、公、お上の力を借りて、伝統の名の下に保護されて生きながらえる、ということでしょう。
来年いよいよアニメ放送となる「昭和元禄 落語心中」は大きなテーマとして、ここに触れています。
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それでいい、と言われたら、正直どんな文化もどうしようもない。寅さん風にいえば「それをいっちゃあ、おしめえよ」となる(笑)。
そもそも話芸たる落語は、一代の名人が消えれば、少なくともその芸自体はなくなる…
しかし、芸の法灯は、「弟子」によって伝えられる。だからこそ、弟子の与太郎が持つ意味が大きくなってくるのだが。
http://idukidiary.blog6.fc2.com/blog-entry-1602.html
ビデオがある今、映画はなんべんでも繰り返されるし、再評価されることもあるだろう。
「寅さん好きはお終まい それでいいじゃありませんか」であり、あとは熱狂的な映画好きや、それでショーバイしてる人々に任せればいいのかもしれない。
「昭和元禄落語心中」では、自分と一緒に(自分の)落語を滅ぼそう、という覚悟と諦念を持つ名人に、「弟子」として抗う主人公とは別に「記録者」として抗おうとする人が出てくる。
上の「落語はお終まい それでいい」は、その記録者に向けた名人の怒りのことばであった。
自分は「記録する者」の応援者であり、そのサイドに立つ側なので、彼の最終的な勝利を期待したいところだ。しかし、それが難しいこともまた事実。
これは仮定法過去形 「もし、あなたのすべてを記録できたのだったら!!(だができない)」という意味であろうと、解釈する。
しかし、この作品の中に出てくる「大衆文化の寿命50年説」というのは、何かの根拠みたいなものがあるのかね?
プロレス、漫画、講談、うたごえ喫茶、相撲、キックボクシング………何をもって、「終わった」「大衆のものではなくなった」とするのかの定義にもよるが、ただ、ひとつの命題として覚えていく価値はあるのだろう、と思ったりもします。
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