活字本から印象的な部分を抜き出すシリーズ2。
中島梓氏(=栗本薫)に「わが心のフラッシュマン」つう、特撮評論本があります。
「SF」の人である中島氏だが、とくに特撮の大ファンであったわけではなく、四歳の息子さんが見ていたのでそれにつられて…というある意味ふつーのパターンだ。
(追記、ブクマの指摘で思い出したのだが、何と故中島氏もその子も実際にテレビ番組を見てた訳でなく、もらったテレビ絵本などの印刷物を見るだけで、想像を膨らませたのだった!)
だが、そこはSFの人で、見てたらいろいろ言いたくなったらしく、それが一冊の本になるというね(笑)
まあ特撮本ということじゃなく、そこから「人はいかに物語を求めるのか」など俺好みのテーマを論じるのがメインなのだが、このフラッシュマンに登場するサーカウラーの「二次創作(この本が出た当時、そんな言葉はなかったよな…)」を一章を割いて書いたりと、まあ恐ろしい人である。
さらにいうと「乗り気でない特撮ドラマに出演してる女優の心境」を即興で?かいたミニ小説まで(笑)。
もう一度、最初から読み直して紹介をしたい気もあるのだが、ずっと頭のなかに巣食っていた、この表題部分だけまずは紹介しとくね
これは「鉄人28号」のころからひそかに小さな胸にわだかまっていた。その疑問というのは「どうしてこのミサイルでもICBM、SDI、化学兵器、レーザー何でもあるご時世に、わざわざ効率の悪いヒューマノイドロボットに、ずっと効率の良さそうなタンクやジェット機が『合体、変身』して、ドタドタと剣なんか振り回して戦わなくてはいけないのか」ということだった。
(中略)
「ガンダム」あたりからもうわけがわからなくなる。なんだってこのバカなヒーローどもは、わざわざあんな人間型の妙なものに入ったり、操作したりして手間をかけるのだ?(略)なんだって、「スーパーロボット」が必要なのだ?
(略)
そういうものがない、というならともかく、このバカなロボットになるのは、せっかく役に立ちそうなヘリコプターやタンクや地中車や戦闘機それ自体なのである!それらが「合体」してこの愚鈍な面付きの箱の化け物に化けるための唯一の理由、それは『オモチャ屋さんのご要望』以外、何一つありえないではないか!
誤解してもらっては困る。私は、それでさえ笑ってゆるすと思うのである。私は資本主義社会に生きている
(略)
私が怒りを感じたのは「オモチャ屋さんの都合」をたくみにカバーして見るものを納得させられるような必然性を作り出すことのできぬ、無能な製作者やおざなりなシナリオライター、構成者たちに対してである。つまんない本で読者をしらけさせたら私はメシのくいあげだ。
あいてがジャリで、何してもわかんないと思って、手抜き商売してくれんなよこの、と、正義の同業者として怒れてしまうのである。
(略)
そうやってかれらは自分の首を絞め、同業の足をひっっぱり、ジャンルを衰退におちいらせる…(略)
子供相手だからこんなとこでいいだろう、などと思うのは自分自身をおとしめることである。かれらはやるからには、なぜヒューマノイドの巨大ロボットが必要なのか、そいれに対してエセ科学でもへりくつでもいいからチャンとオトシマエをつけるべきだ。むしろオモチャ屋さんがそういう制約をつけてくるなら、それを逆手にとってオリジナリティとするのが、クリエーターの心意気というものではないか。
(P32ー34)
自分は出版から程ない頃にこれを読んで「わが意を得たり」と「無茶をいうな」を同時に感じたのを、いまでもまざまざと思い出せる(笑)
この本を故人がかいた時期は、1987年だという。まあフラッシュマンの放送時だろうね。
ガンダムはその前に「ミノフスキー粒子」をこしらえ、まさにスタート前後だったパトレイバーは「人型は汎用性がある」「技術力のアピールには絶好だ」「見た目が与える影響も考慮して作られた」とか、いろいろ考えた…でも、日本屈指のクリエーターが考えに考えてもここが限界だよな…正直。
それ以上はかんべんしてください、と穏健な私は懇願形式でいくが、最狂特撮ファン烈伝形式だと「ロボット悪口警報発令!!」と実力糾弾に及ぶ可能性すらある(笑)。
しかし、このグインサーガを描いたファンタジーの巨人が大地に深く突き刺した聖剣…「巨大ロボット、合体ロボットの必然性を描け」という問い。
この聖剣をぐっと引き抜く、英雄王が今後出てこないとも限らない。機龍警察とかいう作品が挑戦する、とも聞くが…。