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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 報道、記録、文化のために

9月24日は石田三成が大津城門前でさらし者にされた日。1日遅れで司馬遼太郎のその描写紹介。(「関ヶ原」)

日付的には1日遅れの紹介なんだが、それはしょうがない。


敗者の石田三成は、繋がれた状態で…
関ヶ原の勝者の武将と、そこですれ違うのですが、十人十色。

出典はどこだろう。
徳富蘇峰「近世日本国民史」かもしれないが、もしそうだとしても、当然さらに出典はあるだろう。


とりあえず、一般庶民らしく司馬遼太郎関ヶ原」から引用します。上中下3冊の、当然ながら下巻。電書では合本できてるかな。あるね

最初にやってきたのは、関ヶ原において最大の激戦を演じた福島正則である。
正則は馬から三成を見るや
「かっ」
と痰を吐くような口蓋音をたて、「うぬは治部少じゃな」と叫んだ。正則は守山で戦勝の祝い酒を飲み、顔になお酒気が残っている。酒がこの男をつねに狂態にさせるが、この日のこの異様な高声も常軌ではない。「うぬはよしなき戦さをおこして日本一の弓取りにおわす内府公にたてをつき、このようなざまになった。これが五奉行筆頭のなれのはてか」と罵倒した。
「なにをいう」
三成は、背骨を立てた。頬は削げおちていたが、両眼に気魄をこめ、正則をにらみすえた。「うぬのような智恵たらずの男に、おれの心のありかがわかってたまるか。そこをどけ。めざわりである」と、ひくいが、しかしよく透る、底響きのする声でいった。三成は、自分の尊厳を維持することに、残された体力のすべてをつかおうとしていた。
「なぜ汝は」
正男はさらにいった。死なぬ。切腹をせぬ。縄目のはずかしめを受けておとたたみかけたが、三成は蒼白の顔をひきつらせ、うねに英雄の心事がわかるか、と、みずからをもって英雄とよんだ。「英雄たるものは最後の瞬間まで生を思い、機会を待つものである」と言い、かつ、これは三成が声を大きくして叫びたいところであったが、
「人々の心の底を、この目で見て泉下の太閤殿下に報告し奉る。正則、心得ておけ」
 といった。要するに三成は戦いの渦中にあったがために、諸将の動きがさほどにはわからない。たれがどう裏切ったか、ということを見とどけた上で死ぬ。それを泉下の秀吉に報告する。かつ糾弾する。この病的なほどの、いやむしろ病的な正義漢は、そこまで見とどけた上でなければ死ぬ気にはなれなかった。三成は秀吉在世当時もその検察官的性格のために人々にきらわれたが、この期にいたっていよいよそれが露骨になり、いまや地にすわらせられながら、馬上の勝利者どもを検断する気魄だけで生きているようであった。
「世迷いごとを言うわ」
と、正則はついには言葉がなくなり、蹄で土を蹴って三成のそばを去った。

関ヶ原 繋がれた光成が勝利した諸将と対面


つぎに来たのは、黒田長政である。この関ヶ原の裏面工作の担当者は、三成の姿をみるや、馬をおり、三成の前に片膝をつき、
「勝敗は天運とはいえ」
と、意外な態度でなぐさめはじめた。五奉行の随一といわれた貴殿がこのお姿になったことは、かえすがえすも御無念であろう、といった。長政は三成を憎み、三成の肉をくらいたいとまでいった男である。それが三成の手をとり、その冷たさにおどろき自分の着ていた羽織をぬいで三成に着せかけた。
三成は、検断者としての言葉を失い、目を閉じ、顔を凝然として天にむけている。ついに三成ははずみをうしない、一言も発しなかった。この意外なやさしさが長政の性格でもあり、ひとつには関ヶ原における長政の最後の策でもあったというべきであろう。ここで三成からよしなき罵倒をうけ、豊臣家への忘恩行為をあばきたてられて無用に男をさげるのは、長政のとるところではない。長政は、羽織一枚で三成の口を封じた。三成にすれば最後の最後まで長政の策に致されおわったというべきであったが、三成の奇妙さは、これほど明敏な頭脳をもった男でありながら、長政に致されているとは気づかなかったことであった。その証拠に、長政が去ったとき、面を伏せ、
―かたじけない。
と、つぶやくようにいったのである。この男の頭脳にはもともと政治感覚というものが欠けきっているようであった。



やがて細川忠興が馬を打たせてきた。忠興は三成のほうへは視線を送らず、目を伏せ、馬上で無言の会釈をし、城門に入った。



忠興が城門を入ると、城内の木立からこちらへやってくる男がいる。小早川秀秋であった。秀秋は、三成が曝されるよりも早く城内に入っていて、じつは三成の姿をまだみていない。
「どうなされた」
 忠興が驚いて声をかけたほど、秀秋の様子はただごとではない。足を動かすごとに腰の重心がかわるらしく、跛者のようである。瞳がおちつかず、絶えず動いているのもいつものくせであったが、それにしても不審であった。忠興の声に急に目をあげ
(背がひくいために)、
越中(忠興)殿か。治部少を見にゆく」
と口早にいったが、それを言うだけで額から汗がふき出てきたのを、忠興は冷静な目で見た。
「ご無用になされよ」と、忠興は、眉をひそめた。「ご無用に」
「いや、見たい」
うしろめたさと、怖いものみたさ、光成を生前になだめて安堵をしておきたい思いなどのさまざまな願望が、ほそい足を城門にむかって歩ませていた。
「ご無用でござる」
忠興は、三度いったが、その最後のことばは秀秋の耳にはきこえなかった。風にゆられるような歩きかたで去った。



城門の内側まできたが、さすがに門外の三成のそばまでゆけず、門の柱の子供がかくれんぼうをするようなかっこうで、そっとのぞきみた。
それを、めざとく三成の視線がとらえた。金吾かっ、と三成は、この衰弱した体のどこから出たかと思えるような大声で叫んだ。
「その窺い方のあさましさよ」
と叫び、得意の検断を開始した。汝は太閤殿下の御縁者であり、御恩をもっともあつく蒙りながら、殿下の天下をぬすみ去ろうとする老奸に加担し、義を捨て、盟を裏切った。うぬの醜名は日本国に人が住みつづくかぎり語り伝えられるであろう。自分が鬼となってののちは、うぬをこの地上には生かしておかぬ。
「聞こえたか、―」。

三成が最後に一喝したときは、秀秋はすでに柱の蔭から消え、本丸への坂を、自することさえ忘れて走っていた。



家康は奥の座所にあって、それらの出来事のすべてを報告者からきいた。最後にうなずき、「治部少輔に対面する。鄭重にせよ」といった。
「鄭重に」
と、念を入れている。捨て曝しの効果を得た以上、あとは徳川家の襟度をしめし、軍門の礼をもって三成を遇し、世間の評判をよくすべきであった。家臣どもは、家康
の意を心得てそのとおりにした。


対面は、無言でおわった。

三成は縛めを解かれているが、例の布子帷子一枚の姿である。が、この男のすごさはこの姿になっても豊臣家の権臣であった態度で家康に接し、まわりの目をみはらせたことであった。あとは身柄を、家康側近の本多正純にあずけられた。正信の子である。

twitter上では簡単要約もある。