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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

関ケ原前哨戦で、細川幽斎が残した「歴史や文化を伝える」ことの意義を語った歌(「大関ケ原展」江戸東京博物館)

【記録する者たち】
今週末で終わります、この催し。

http://sekigahara2015.com/

関ヶ原合戦画屏風』『関ヶ原合戦絵巻』の出陳数10点以上(3会場合計・予定)は過去最多。美しく、色鮮やかな屏風・絵巻類は、一級の美術品としても大変見ごたえがあります。(重文を含む合戦図を東京、京都、福岡各会場にて分散展示)

関ヶ原合戦前日に密約を交わした誓約書など、関ヶ原合戦にまつわる貴重な古文書を展示。有力武将たちがしたためた文書から、“信頼”“裏切り”“凋落”などが読み取れ、当時のスリリングな情報戦が浮かび上がります。天下分け目の関ヶ原合戦のみならず、“戦場外の戦場”も読み解いて行きます。
 
【東京展の注目の出陳品】
家康と徳川四天王の具足が勢ぞろい
関ケ原で家康が着用した伊予札黒糸威胴丸具足のほか、子息徳川秀忠松平忠吉重臣本多忠勝井伊直政榊原康政酒井忠次・同家次の具足が勢ぞろい。このほか、≪金扇馬標≫久能山東照宮蔵など、戦場に翻った旗・馬標などを多数展示。石田三成の愛刀≪刀 無銘 正宗 名物 石田正宗≫、や嶋左近の兜、大谷吉継の刀なども登場します。

蜻蛉切を見たり、石田政宗を見たり、諸将のよろいかぶとを見たりと色々楽しかったのですが、関ケ原本番のほうには参加していない細川幽斎関ケ原には息子忠興が参戦)の展示で、うたが一首紹介されていました。


細川幽斎は、「前哨戦」で活躍しています。

http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage356.html
細川藤孝(幽斎)・忠興父子は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。忠興が主力を率いて家康に従って出陣すると、藤孝は宮津久美浜・峰山の諸城を焼き、手勢500人とともに田辺城に籠城し、留守を守った。しかし、7月20日西軍に応じた近隣の諸城主小野木・谷・別所・藤懸氏らの兵1万5000余が田辺城を包囲し、落城は時間の問題となった。


このあと、史上希なことが起きる。

http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/tanabe.html
 後陽成天皇が動いた。すなわち勅使として権大納言烏丸光広・前大納言中院通勝らを前田茂勝(玄以の養子)とともに下向させ(使者の人選は異説あり)、まず重勝らに「もし幽斎がここで落命するようなことがあれば、古今集の秘伝は永久に絶えるであろう。すみやかに城の囲みを解くように」との勅命を伝えた。重勝らはこれを奉じて囲みを緩め、勅使は城内に入って幽斎をも説得する。ここに至って幽斎も勅命を畏み、ついに城を明け渡すことを決意した。これが九月十二日(日時は異説あり)のことである。やがて攻囲軍の囲みは解かれ、一旦京都に復命しに戻った前田茂勝は再び田辺城に戻り、十八日に幽斎とともに城を出、翌十九日に丹波亀山城に入った。


どこからどこまでが本気か、芝居か・・・…本能寺の変のときは明智光秀側に加わるように要請されたものの、「出家して織田信長の菩提を弔う」と称して実質的に中立化し、生き残ったしたたかな親父だ。これもひとつの戦略だったのかもしれない。その一方で、これで助かろうというのが計略だとしても、あまりにもバクチ的であり、そこは戦国武将の豪胆かもしれない。(このへんの二面性は司馬遼太郎「関が原」にも出てくる)


まあそれはそれで・・・…
仮に建前だとしても、その建前の中で、『貴重な「古今伝授」を後世に伝えるために戦争とは別に文化遺産を脱出させたい』という論法が使われたことに注目したい。

有名な歌人三条西実枝から「古今集」に関する故実の秘事を伝授された(いわゆる「古今伝授※」)藤孝は、その断絶を恐れて高弟智仁親王桂宮)に古今相伝の書を贈ることを申し出た。
(略)
開城を勧める使者を派遣したが、決死の覚悟を決めていた藤孝はこれを謝絶、古今相伝の箱に証明を付し

古(いにし)へも 今もかはらぬ 世の中に 心のたねを 残す言の葉

の一首を添えて、「源氏物語抄」などとともに親王に贈った。

こういう、文化遺産や記録の伝承という例を自分は収集しており、このブログでは副タグとして【記録する者たち】をつけて管理している。


その一例として適当だったので、大関ケ原展を見てあらためて知ったこの歌に関して、長すぎるメモをしたためた。