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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

いしかわじゅん氏「安彦良和は動きがかけない」⇒安彦氏「アニメーターの僕に、動きが描けないだって?」(「王道の狗」白泉社版4巻から)

ちょっと本日「漫画の『絵』」の話をしたいので、蔵書から抜き出して。

明治時代を舞台にした伝記ロマン「王道の狗」は連載誌の版元である講談社版のあと、白泉社から発行された版があり、そちらは後半部に100枚以上の増補が付け加えられたほか、4巻巻末に作者のあとがき(エッセイ)がついている。
その、4巻収録のあとがきが、ちょっと剣呑でして。
なにが剣呑かというと、「BSマンガ夜話」での自作(虹色のトロツキー)が取り上げられた際、コメンテーターの評にかちんときたと(笑)。ああ、なつかしいなあ、こういうトラブル(笑)。
永井豪が「自分で描いてない」という論評に「いや、ちゃんと描いてるよ!」と反論した時は番組の一部を借りて映像を流したっけ。
あとは藤田和日郎が「作者もけっこう傷つくのにさ…」とサンデー公式ブログで描き、盟友椎名高志が成り代わって反論するというサンデーというよりジャンプ的なアツい展開があったっけ。
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ただ、「自評に異議アリ!」と声を上げるのは多いようでもあり、少ないようでもある。その数少ない、作者本人から「BSマンガ夜話への異議申し立て」を、この機会に紹介したいと思うし、マンガの「絵」をめぐる考察にも役立つだろう。

王道の狗 (4) (JETS COMICS (4224))

王道の狗 (4) (JETS COMICS (4224))

以下「絵」「動き」に関しての部分を中心に抜粋する。

『虹色…』は先日、NHKの某批評番組で「批評家」いしかわじゅん氏の酷評をかった。
「批評」などというのは所詮、欠席裁判のようなものだ…
(略)
いしかわ氏は突然こうおっしゃった。
「俺は、興味ないんだよ」(略)
「何が言いたいのか判らない。川島芳子李香蘭が描けていない。古い世代に属する安彦良和には、大友克洋以降の描き手達のようなリアルが描けず、動きも描けない。従ってその表現は、単なる記号論でしかない」云々云々……
(略)
上記のいしかわ氏の『批評』は的外れを超えている。いわば言いがかりに近いものといっていい。漫画であれ何であれ、作品という物は作り手にとってわが子のようなものだ。わが子が往来でどこかの悪ガキに言いがかりをつけられたら、傍らにいる親はその悪ガキを張り倒したくなる。(略)

〜〜<李香蘭川島芳子の話などがあり>
次に、記号論だ。ぼくは(略)…少なくとも漫画に於ける「記号」の意味をいしかわ氏のように解してはいない。
漫画は、古いものであれ新しいものであれ、本質的に「記号」の集積なのだ。
そう思っている。

手塚治虫は、よく言われているように現代の漫画表現の偉大な先達者になった。それは、従来の記号領域を彼が飛躍的に拡大したからだ…それに惹かれた描き手が次々とその後に続いた。
大友克洋が、時代を画する存在であるのは間違いない。が、彼が表現者としてやってみせたのも記号の拡大であって、それ以上でも以下でもない。彼は確かに「リアル」を描き加えた。死体やメカや、醜い短足の東洋人というような、それまでは敬遠して誰も進んで描こうとしなかったような対象をも、彼はこうすれば描けるではないかと実技を以って示した。だが繰り返すがそれは、記号の”廃止”ではなかったのだ。
だからこそ大友のあとにも、擬似大友の描き手がぞろぞろと続いた。
(略)
しかし「評論家」いしかわ氏もそう称するなら知らぬはずはあるまい。当の大友克洋も、「自分は手塚の子だ」と公言しているのだ…大友をさらに先鋭化させ、さらにリアルに向かって突き進めたといってもいい寺田克也ですら、「師は手塚だ」と言い切っている。(略)自分たちが、手塚の確立した記号的方法による漫画史の外にいる描き手だとされてしまったら、戸惑うのは誰よりも大友や寺田本人であるだろう。

「リアル」と「記号」にふれたいしかわ氏の僕に対する批判に、しつこいようだがもう少し言及する。
例えば氏は「リアルに欠け、記号でしかなく、動きの描けない」作者安彦の欠点を示す箇所として、一シーンを挙げる。建国大学で合気道の開祖植芝盛平が、主人公の学生を投げるシーンだ。いしかわ氏は、その一連の動作の途中が省かれているのを指して「リアルではない」といい「動きが描けない事の証明」といい、従って大友以前の旧世代作家安彦良和の描き方は「記号論でしかない」というのだ。
いしかわ氏の指摘は、残念ながら論理の飛躍ですら「ない」。
合気道や、その源流となっている大東流柔術(その描写は植芝の師武田惣角にからめてこの「王道の狗」に出てくる)の特徴は、動きの中動作が極めて見えにくいということだ。
その見えにくい部分の理を、武芸者本人は「気」として表現する。絵で図解するには、本質的に不向きな部分なのだ。
例えばそれはいいかわ氏の好きなプロレス用語で言えば猪木のコブラツイストの対極にあると言っていい。腕や脚のからみをいい加減に描いてはコブラツイストは成立しないだろうが、合気道古武術の技は、どうやらそれらには拘らないらしいのである。
 
とはいえ、いしかわ氏がどうしても望むというなら、その技の中間過程を描いて見せぬでもない。氏は御存知ないかもしれないが、僕の前職はアニメーターである。職の病というものは恐ろしいもので、他人には些細に見えるらしい漫画画面での動きの継続性が、僕はいつも気になって仕方がない。それは漫画家としての長所ではなく、むしろ野暮な短所ではないかと疑っているくらいだったから、公共の電波で(この言い方は嫌いだが今はあえてする)「(安彦良和は)動きが描けないのだろうナ」と言ってのけられた時に、僕は他のどんな難クセに対してよりも強く怒りを覚えた。大人げないのだが、いしかわ氏の前で指パラのアニメを描いて見せてやりたい気になった(どうですかいしかわさん、見たいですか?見せてあげましょうか?)

このあとの話もまた面白く、また本来の「王道の狗」解説に戻って(笑)、日本はどこで道を誤ったのか?対華二十一カ条要求か?日清戦争か?といったテーマについて語っていて、本当はそっちを論じたほうがたぶん有益なのだが(笑)、それは次の機会に。

※「漫画と絵」シリーズ、関連記事
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少々、引用部の感想を。
いやあ、このあとがきのために、講談社版も持っているのに購入してしまった。ただ、漫画界の著名な実作者・批評家がケンカしてるのが面白いってだけじゃなくて、格闘技、武道の動きの理論や、さらには自分のアニメーターの『腕に覚えアリ』っていう自負に裏打ちされた啖呵が痛快だからこそ、この文章に惹かれたのであった。
つまりは、江戸の”職人衆”の啖呵のようなところがあるんだよ。腹を立てての抗議文なのに、自然とそんな芸論、技術論になっていく、そこの面白さっていうとわかってくれるだろうか。

しかしこの論争が、2005年とネットも爛熟しはじめていたころなのに、大きな話題にならなかったのは残念だ。もちろん、「何言ってやがるんでぇ、この丸太ん棒め!」というこの啖呵が大きな騒動に発展していくか、時代と場所がちょっとだけずれていれば、安彦氏の言った
・「合気道の『中間過程』を絵にして見せてあげよう」
・「いしかわ氏の目の前で指パラ漫画を描いて見せてやる」
このふたつが、ドワンゴあたりの主催で実現したかもしれない。ああ…みたかったなあ…。
とくに「合気道や武道は『動きの中動作』が見えにくい。だからそこはあえて略したが、どうしてもというなら描いてみせよう」というのはね…この前、レスリングや柔道など、スポーツは「録画」という技術が大きく変えた、という話をしたじゃないですか。ここね↓

格闘技もフィギュアも「ビデオ」が質を変えた…「映像の、大衆の世紀」をあらためて考える
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動きを目で見て覚えるというのは特殊な技術、一種の魔法で、その能力が高い物はオリンピックでもトップをとれるし、ソ連は国策として、初期から「8ミリ」で相手の動きを録画し、アドバンテージとなっていた。

武芸の達人の技を見ても、プロの格闘家などはむしろ判らない…だが、ペンより重いものを持ったことがない「アニメーター」は、その動きの本質を見抜いていた!!!なんて、格闘技漫画につかえそうなネタだね(笑)。あ、そうだ、「ツマヌダ格闘街」の主人公はアニメーターだという設定だったような……。


そして「指パラ漫画」。アオイホノオの序盤で、庵野秀明とホノオモユルの圧倒的な技量差を表現したアレだ。安彦氏、挑発すれば目の前で描いてくれるのか……。そんなサービスしてくれるなら、みんな「ヤスヒコは動きが描けない」「描けない」と言い募るわ!!!!!(笑)
こういう面白いトラブルを生んでくれる点でも「BSマンガ夜話」は貴重な場だったのだが(笑)、NHK上層部のウケが悪かったという話も非常に理解できる(爆笑)。


だが、いしかわじゅん氏のほうにも言い分がある。
というか、「一般的な絵の巧さ」と「漫画としての絵の巧さ」の差異に関しては、いしかわ氏は一家言も二家言もある

それは氏の評論本「漫画の時間」の冒頭でも、ページを割いて語られている…

漫画の時間 (新潮OH!文庫)

漫画の時間 (新潮OH!文庫)

漫画のうまい漫画家と、絵のうまい漫画家はとは、別のものだ。
ちょっと、わかりにくいかもしれない。
池上遼一という漫画家がいる。とてつもなく絵のうまい漫画家だ。デビューの頃から、その絵には定評があったが、ここ十年ぐらいで、それは完璧に完成してしまった。(略)
池上の技法をベースに、アジアの漫画の一部は成立したといっても過言ではあるまい。
しかし、池上は、あくまでも僕の個人的意見だが、漫画は決してうまくはないと思う。
漫画の最大の特徴のひとつとして、止まった絵で動きを見せられるということがある。一枚の絵の中で、あるいは何枚かを組み合わせたコマ割りの妙で、止まった絵を、まるで動いているかのように見せることができる…その技術が、動きのテクニックが、池上はあまり優れていないと思うのだ。どうもあまり楽しくない例にあげてしまって、池上には申し訳ないが…
(略)
ごく大ざっぱないいかたをしてしまえば、<動き>というのはある点から次の点への移動だ。あるいは、ある時間からある時間までの経過だ。それをどう描くかが、漫画家の腕の見せどころなのだ。

その後、逆に「動きのある絵」の例としてやはり大友克洋を挙げ、池上氏の絵と比較して考察している。

すくなくとも「漫画の中の動き」には、このようにかなり意識的に考察をしているいしかわ氏が、安彦漫画の動き、を低く評価したのは、合気道古流柔術の動きの特性ゆえだったのか、それ以外の何かだったのか…。
そのへんはもっと詳しく聞きたいところだし、現在の「天の血脈」なども論じてほしいところだ。
あれは主人公(現代編)は、アクションで動かしがたいけど。

天の血脈(4) (アフタヌーンKC)

天の血脈(4) (アフタヌーンKC)

追記 ブクマより

id:izumino
この話はユリイカ安彦良和特集号の伊藤剛原稿を出さないとオチがつかないので未読ならぜひどうぞ

追記 この記事をきっかけに、非常に面白い文章が。必読!!!

絵における「動き」とは一体何なのか?という話
d.hatena.ne.jp

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