日本漫画の絵が、ある意味でひとつに収斂していく光景を私たちはいま、リアルに見ています。(やや大げさな表現だが、それは許されたい)
それはなぜかなー、というのは
自分も気になっていて、徒手空拳であれこれ考えをひねっていました。
「かわいい」の科学−−あるいは日本漫画の不思議な進化について
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080821/p5
日本漫画・アニメの可能性と限界。いわゆる「アニメ絵」が受け入れられる文化圏の拡大について
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20091002/p5
で、ふらふら見てたら偶然、その考察記事に出くわしたので
記録しておこうと思いました。自分はこれが正しいのか検証しきれないところもあるが、読んでいて面白いものでした。
http://funuke01.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-88bb.html
……もうひとつ、ここがめんどくさいのだが、「アニメ絵」の潮流の中で、「女の子をかわいく描く」コードが生まれた。
これは「アニメ絵」というパラダイムの中でだけ通用するコードで、80年代には批判もされた。
批判の理由は、「模倣して再生産しているだけではないか」ということだった。
たとえば「姫トラ」みたいな安直なトランスミュージックが、どれもこれもみんな同じに聞こえることを連想してもらえればいい。何から何まですべてが決められていて、しかもそのコードは、「みんながやっているから」という理由でしかない。
それは「萌え」という言葉ができてからも、同じだった。
驚いたときに「どこでもいっしょ」のトロのように目がグルグルっと雑に書いた丸になるのは、それが「流行っているから」という理由しかない。
純粋絵画を愛でたり研究したりしている人には、そういうところがカンに触るのかもしれないが、これはもう「そういうものだからそういうものなんだ」としか言いようがない…(後略)