自分が史書でなく、報道などで直接接したクーデターは、未遂も含めると1991年のソ連崩壊の引き金となったクーデター未遂。テレビ速報で「ゴルバチョフ病気で辞任」の一報がながれ、本当にそうなのかと朝日新聞社に電話で聞いたら、同社も知らなかったというちょっと不思議なタイムラグがあった。朝日の縮刷版かデータベースで見てもらうと、その数週間後『「ゴルバチョフがやめたというのは本当か、うそか」という本社への問い合わせ電話が第一報で・・・』という記事が出てくるはずだ(笑)
まあこんな感じで文民政府が反抗し潰えるならクーデターも国家反逆、悪の象徴となるのだが・・・
アルジェリア・クーデター(1992)、タイ・クーデター(2006)なんかが印象に残るのだ。
文民政府に問題、混乱、腐敗、対立が発生し、抗議デモが広場に広がって・・・そこで最後の最後に、社会を運営する組織と実力と人材の源として<否応なく近代>である軍が登場する・・・という構図を、完全に否定することは極めて残念ながらできないのが、今の世界のあり方だろう。とくに”いわゆる発展途上国”は、近代的な社会運営や人材育成をする仕組みが、植民地支配や侵略によって脆弱なため<軍しかない>というパターンは事実として存在する。
だが、いつなら軍が出てくることに正当性と正統性があるか?となれば、まあわからない。たぶん「正統性」という点では常に問題があると思う。よく考えたら100%正統性のあるクーデターなんて語義矛盾だし(笑)。
ただ、言ってしまうと「抗議デモ」というもの自体が、一種の超憲法的、超法規的な実力行使でもある。抗議デモをする権利ももちろん法律上にうたわれているが、それによって権力がひっくりかえる、というのは、大衆の怒りに絶えられなくなった権力者が自発的に辞任する、ということであっても・・・じゃあその指導者は選挙で選ばれなかったの?となれば選ばれたりするんでね・・・その選挙が不正選挙だ、云々というのは別にして。
今回、ほとんど周辺状況を知らないで、外から無責任にいうなら「民選されて1年なら、もうすこし大統領に猶予をあげてもええんちゃう?」「最後に軍が出てくるのは、やっぱりいくないんじゃないかな」と思ったりもするのだが・・・
どうもこればかりは、いい悪いを断罪しにくい。もし悪いなら、後継政権の承認という問題もある。
アッラーが、かの国によき道を示すことを。