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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

ジャイアント馬場異説。「馬場は見た目が『見世物風』なので、野球で実力以下に評価された」(柳澤健)

週刊大衆で連載中の柳澤健「1964年のジャイアント馬場」。
グレート東郷は有能すぎて日本プロレスの幹部に恐れられた」「馬場はしっかり日プロと交渉し、エースの座の保障を得て力道山亡き日本に戻った」など、完全未発掘の新資料とかに頼らないでも新鮮な視点を提供してくれている。
そして現在発売中の号で、ちょとした逆説の視点を提示している。
それはざっというと、こんな感じだ。

馬場正平は2軍において、最優秀投手になるほどで実力は十分だった。しかし、敗戦処理ばかりをやらされたり、1点差で投げ合っている最中に不可解な降板をされたりと、それに見合ったチャンスを得られているとは思えない扱いだった。
それは、馬場の見た目にあった。
(1)2mの大男というだけで「足腰が弱い」「フィールディングが不安だ」というイメージを上層部に持たれた。
さらに・・・こちらが重要
(2)馬場が登板すると「巨人軍で巨人が投げる、コリャまた珍妙だネ」という、色物的なイメージがついて回った。肯定的な雑誌にも「野球はショーなのだから、こういうお遊び的要素も必要」みたいなことを書かれる始末。「真剣勝負の野球が、見世物のように見られる」ことを嫌った野球人が、逆に「(2軍という)真剣勝負で結果を出しても見た目が見世物」な馬場を排除する雰囲気を生んだ。


さて・・・これが本当なら、これもまた実に不思議な逆説だ。
真剣勝負なら、見た目がどんなに見世物っぽかろうがお笑いっぽかろうが、結果を出した(2軍で最優秀投手になった)選手が上に行く・・・と思いきやそうはならない。「真剣勝負なんだから、本当にガチであれ、見た目が見世物、フリークっぽいものは意図的に排除しなければ!それが真剣勝負だ」という・・・へんてこな逆説ね。


馬場というと「しょせん2軍投手で終わったんでしょ?」とこどものころは思ったのだが・・・「グラゼニ」の第1巻でわざわざ一エピソードを使って語られたように、あるいは「筋肉番付」で証明されたように、プロ野球選手というのはとんでもないアスリート中のアスリートの集団で・・・二軍でも通用しないで、球団職員などになったような選手でも運動神経と体力の塊はごろごろしている。

グラゼニ (1)

グラゼニ (1)

「二軍最優秀選手」といったら、やっぱりとんでもなくすごいことなのだ。そうすると「馬場は”見た目が見世物っぽい”という不当な理由で、チャンスを奪われた」という柳澤氏の推論は、説得力を持つ。
ただ、前後して馬場は脳腫瘍の手術を受けている。そのころの医学で開頭手術を受けた馬場は、奇跡的な回復を遂げたとはいえ、手術前には「死を覚悟してください」「あんまさんの練習をしたら」とアドバイスを受けるほどだったという。「今の実績より、頭にメスを入れたというリスクを重視」というのも野球フロントの論理としてはありましょう(ちょっと時間が前後しているけど)。あと「フィールディングや足腰に不安。バント攻勢などに対応できるか」という部分、文章では「そんな選手はそもそも2軍最優秀投手になれるはずがない」という証明の仕方で、こでも十分説得力があるが・・・
野球のうらやましい記録の充実ぶりを活用して、「馬場投手の内野守備に不安要素はなかった」というのが数字で分からないだろうか・・・、と最近野球そのものは見てないのに、野球記録づいている自分はちょっと感じました。

だれか野球・プロレスの兼マニアで、記録の収集と分析が苦にならない・・・という奇特な人が、「プロ野球選手時代のジャイアント馬場馬場正平)の全記録」を分析し、「実績十分なのに、不当な偏見などで報われなかった」のか「フィールディングなどが不安で、バント攻勢されたらひとたまりもない(はずだ)」のかを調べてほしいものであります。

ウィキペディアの「ジャイアント馬場」から・・・・

・・・監督水原茂の「若手は二軍でスタートし、基礎作り」という方針のため、長い間二軍暮らしを余儀なくされるが、2年目となる1956年から活躍し始める。同年12勝1敗、翌1957年に13勝2敗で、2年連続二軍の最優秀投手賞を受賞[8]。
1957年10月23日、中日戦でようやく一軍で初先発の舞台を踏むが、エース杉下茂の投げ合いとなり、5回まで無失点で抑えるものの敗戦[8]。同試合は杉下の200勝達成試合になった[8]。
この試合の直後、視力の急激な低下に見舞われる。診察の結果、「脳腫瘍」(下垂体腺腫により視神経圧迫)と判断され[8]、同年12月23日に東京大学医学部附属病院で開頭手術を受けた。当時の技術では成功率が非常に低く、医者から「失明する可能性が高いので、見えているうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められた程だったが、手術は無事成功。1週間で退院し、翌月には頭に包帯を巻いたままキャンプに復帰した。
1958年には目立った活躍は見せなかったが、翌1959年には3度二軍の最優秀投手賞を受賞した[8]。しかし、馬場を評価し後ろ盾となっていた藤本英雄投手コーチが退団したこともあり、同年オフにジャイアンツから解雇された[8]。