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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

高潔なる教皇、人間的なる教皇―退位教皇や塩野七生で考える。

今回、ベネディクト教皇が退位すると聞いて思い出したのが、塩野七生がどこかで書いていたっぽいなー、というあいまいな記憶だった。
「これまでの退位した教皇の中には一人、あまりに高潔で法王庁の醜い政争に嫌気がさし、自発的に退いた人がいる」
これ以上詳しいことは覚えていなかったのだが・・・

■退位した歴代ローマ教皇(法王)四人まとめ
http://kousyoublog.jp/?eid=2839

うん、あの報道を見たら「過去の生前退位した教皇ってどんな人?」とは皆思うよな。そんな欲求にさっと反応、すぐれたまとめが出てくるからネットはすごい。
そしてその、「高潔な退位教皇」も分かった。

3)ケレスティヌス5世(在位一二九四年七月〜一二月)
(略)・・・教皇ニコラウス4世の死後、後任を巡って枢機卿同士の対立が続き二年四か月が経ってもなお、新教皇が決まらない異常事態・・・(略)諫言する手紙を教皇庁に送ったのがベネディクト修道会の司祭ロムーネのピエトロであった。彼は当時八〇代半ばの老人で、苦行に耐え、貧者や病人の救済に生涯を捧げ、その救済に専念する専門の修道会(後のケレスティヌス修道会)の創設者として非常に高い名声を誇っていた。その手紙を受け取った枢機卿たちはひらめいた。ピエトロになってもらおう。彼は自分が教皇に選ばれたという衝撃の手紙を受け取ることになる。さらにシャルル2世にも懇願され、渋々ローマ教皇ケレスティヌス5世となった。
しかし、当時のローマ教皇の座は人徳や高潔さや名声だけでは務まらない非常に世俗にまみれた地位であったから、自身は適さないとして改めて退任を申し出て、再び教皇選挙によって後任が選ばれることとなった。それがボニファティウス8世である。
(略)
ケレスティヌス5世は後に一二世紀〜一五世紀を通してただ一人だけ聖人教皇に列せられている。

このボニファティウス8世という後継者は正反対過ぎる、野心満々の陰謀家だったそうな。ブログ内には、このまとめと別に詳しい記事がある。
http://kousyoublog.jp/?eid=2837

ボニファティウス8世は老練な法学者であり、権謀術数に長け、傲慢で肥大化した野心を隠さない俗物・であった。退位した前任者ケレスティヌス5世を保身のために軟禁して死に至らしめ・・・、
 
カエサルはこの私だ、皇帝はこの私だ、帝国の法を守るのはこの私だ」(ミシュレP30)と叫んで王冠を自ら被ってみせたという。
 
「二つの権力と二つの原理を認めることは異端」、
「すべての人間はローマ教皇服従することが必要」

教皇ケレスティヌス5世はボニファティウスに対し、その末路をこう予言していたという。

「汝は狐のように駆けあがり、ライオンのように君臨したのち、犬のように死ぬことだろう」

なんとも対比的なドラマだ・・・しかしここから話がつづく。

塩野七生、「堕落したカソリック」をかく擁護する。

ローマ教皇の事跡を中心に扱った日本語の書籍で、一番売れているのがたぶん塩野七生の「神の代理人」ではないかと思う。ただこれも塩野作品の中ではそれほど人気があるわけではないという。まあ「歴史キャラ萌え」「歴女」の元祖中の元祖である塩野氏である、カエサルチェーザレ・ボルジアを描いた作品とはまた情熱の総量は違う。

神の代理人 (新潮文庫)

神の代理人 (新潮文庫)

ただ、もう15年ほど前だったのか、この本を読んだとき「あれっ?」「そういわれれば」と思ったのがたしか最終章であった。

最近出た、彼女の未収録文章を集めたエッセイ集「想いの軌跡」から再引用しよう。

地中海世界ほど、人間性に対して寛容な世界はない。ここでは罪の意識にさいなまれずに生きていける。わたしは、人間本来の陽気さと死に対する平穏さに欠けた世界では、生きる気がしない。別に、北の人々(※ここでは宗教改革者たちを意味する)の生き方を非難しているのではない。ただ、かの地では、自分は生きて行けないと思うだけなのだ。」
レオーネ十世のこの言葉に、ベンポもサドレートも、共感をもってうなづいて・・・

レオーネ十世とはレオ10世。免罪符を売りまくった、あの人だ。

ウィキペディアの「レオ10世」
・・・サン・ピエトロ大聖堂建設資金の為にドイツでの贖宥状販売を認めた事が、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった。また、行列や宴会など、とにかく贅沢が好きで湯水のように浪費を続けた。享楽に満ちた聖都ローマは、ルターに「新しきバビロン」と非難された教皇庁には未曾有の財政破綻が起こり、「レオ10世は3代の教皇の収入を1人で食いつぶした。先代ユリウス2世の蓄えた財産と、レオ10世自身の収入と、次の教皇の分の3人分を」とも言われた。

しかし!
たしかに塩野の言うとおり・・・湯水のように贅沢して作ったのが「サン・ピエトロ寺院」と、その内部を彩る稀代の芸術家の装飾品だとしたら・・・それは「人間性への寛容」なのじゃないか???

塩野は、ちょっと時代を変えて、ジュリオ二世という教皇ラファエロについても語る。

ルネサンス時代の法王たちの中で、後世に残る作品をもっとも多くプロデュースしたのは、決してインテリとはいえなかった法王ジュリオ二世であった。(略)・・・その若者を呼ばせた。ためしに描かせてみると、なかなかイケる。…若い画家の名はラファエッロ。
ところがラファエッロは・・・神の地上の代理人の依頼だからとって恐縮などせず、自分の思うままに描くことにしたのである・・・古今の学芸の天才を一堂に集めた図を描いた。キリスト教徒から見れば異教の徒の、プラトンアリストテレスまで加えて。これを法王の居室に描いたラファエッロもラファエッロだが、それを大変に気に入ったジュリオ二世も、ルネサンス時代にしかあらわれない法王であった。

これですなあ。
ラファエロアテネの学堂」

プラトンアリストテレスが偉い人、というのは教皇庁も異存はないだろうが、「でもキリスト教信者じゃない(その前の時代の人)。だから天国にいけませんよね?」といわれればまあその通り。
だから「リンボ」やらの議論につながる。
http://kousyoublog.jp/?eid=2827
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130209/p3
極東ブログ 『辺境、辺獄、リンボ』
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/12/post_d804.html


とすると、宗教的に真面目=厳格で不寛容、不真面目=寛容という部分も・・・いやいや人間だれしも「心に棚」があるから、自分は不真面目なのに非寛容な連中もたくさんいた。
それに、ジロラモ・サヴォナローラの殉教じゃないけど、真面目で厳格で不寛容な人間と闘う、裁くという状況になったときにどうする・・・と問われる、そういう「寛容の敵には、不寛容であるべきか」の問題なら・・・また定義も変わってくるだろう。「自由の敵に自由を与えるべきか」という議論ともつながるな。
イコールでいつも結べるわけじゃない。
でも、イコールで結べる「ことも」ある。


自分は半分ほど、塩野的なこの議論に説得された。
具体的には日本国の在の仏教集団において僧侶がきわめて俗化していること、キリスト教の聖なるクリスマスが形骸化しきっていることを「日本教の勝利」「世俗国家、ここに神を征服す」「われらは狂信の徒たちの牙を、抜き切った」とほくそ笑んだりしている部分がある(笑)。

■キリスト生誕日に際し、日本教徒に与える書
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20061224/p3

そう、街の・・・酒場で、レストランでフツーに酒を飲み、ステーキを食う坊さん達こそ、ルネサンス的な「人間性ある宗教者」なのだ。
今「退くは無間地獄、進むは極楽往生」「十方世界は・・・五戒で保つ」とか本気で言ってる僧がいたら、たぶんこの近くのこんにゃく屋だよ。薪ざっぽでぶん殴ってやれ(一部意味不明)。
まあ、俗になりすぎて世俗を支配しようとする・・・上でいえば「カエサルの冠を自ら被る」坊主(教皇、もしくは名○会長)もやばいわけだが、日本では幸い、ここ1−2年機関紙でも消息を聞かなくなった(誰の話だよ。)


そんなことを、「教皇退位」というニュースから「過去の清廉な教皇、俗物な教皇」の対比ブログ、塩野七生の本などで考えました。

ちなみに余談。

最初に書いた「レオーネ10世の言葉」は、本で読んだときも「なんか冗舌に論を展開しているなあ、史料に拠ったというよりツクリがあるのかな?」とちらりと思ったが、今回の「想いの軌跡」によると
「自分がフェリーニ監督と話したとき、監督から直接聞いた言葉を、法王の言葉として小説に書いた」
んだって(笑)。

この本、面白いのであとでまた紹介します。

想いの軌跡―1975‐2012

想いの軌跡―1975‐2012

塩野七生は何をどう考え、書いてきたのか――はじめて明かされる創造の流儀。地中海はインターネットでは絶対にわからない。陽光を浴び、風に吹かれ、大気を胸深く吸う必要がある――。イタリアに暮らして四十余年、『ローマ人の物語』をめぐる秘話や異国から送る日本人へのメッセージ、忘れ得ぬ友人たちとの交歓。折々に綴られた単行本未収録エッセイで辿る、歴史作家の思考方法。

塩野氏のある名言を追記しておく

上記の書から追加引用

イタリアにはルネサンスは生まれえても宗教改革は生まれえず、ドイツはルネサンスを生めなくても宗教改革なら生む