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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

なぜ高島俊男は「訊く・聞く」などの書き分けを「アホ」とするのか(お言葉ですが…より)

■なぜ広まった? 「『訊く』が正しい」という迷信
http://d.hatena.ne.jp/takeda25/20121113/1352799353

というのが数日間ホットエントリにあがっています。
これにtwitter連動のブックマークで、こうつけました

高島俊男お言葉ですが…」(文芸春秋)4巻収録のコラムで、同様の趣旨が書れています。/『あてる漢字によって別の言葉になる・・・(略)などと言うやつがいたら「アホかお前は(略)・・・」と笑ってやればよいのである』

これに対してリツイート、スターなどが多いので、もう少し紹介したほうがいいかと思いこれから少し詳しく。

お言葉ですが…〈4〉広辞苑の神話 (文春文庫)

お言葉ですが…〈4〉広辞苑の神話 (文春文庫)

からですが、高島氏はたぶんこれ以外のところでも論じていると思います。

はてブより
id:izumino 「他には『漢字と日本人』にも載っている主張ですね」

漢字と日本人 (文春新書)

漢字と日本人 (文春新書)

とりあえずこの本の該当章は177P-182P「英語と日本人」。
そう、高島氏は漢字のことだけではなく、英語でも同じことだ、と大きい視点から論じています。
まず氏は、松井力也「『英文法』を疑う」を褒める。そしてある箇所を引用し、英語も中国語も、そして日本語も同じだと話す。

(松井氏の本の)なかに、こういうところがある。
英和辞典でtakeという単語をひくと、50ちかい訳が書いてある。まるでtakeには50もの意味があるみたいだ。しかしそうではない。ネイティヴにとってtakeの意味は一つである、と。

賛同した高島氏は、自身の長年の主張として、

辞書は1、何々、2、何々、3、何々・・・といろんなことを書く前に、そのひとつのイメージを描き出してくれ、というのが小生長年の主張なんだ。英語はダメだからわが商売のほうで申し上げましょう。

と、氏は「開(Kai、なんかaの上に横棒がある)」という字を紹介、中国語の辞書で「1、戸や窓を開ける」「2、花が咲く」「3、お湯がわく」・・・などのいろんな意味が書いてあることについて「まるでことばが分裂症をおこしたみたい」と皮肉る。
では、「開」とはなんぞや?

要するに『静止凝縮していたものに外力が加わって動きが生じ、直線状に距離ができる。あるいは平面状にひろがる』ということなのだ。いやもちろん、中国人がこんなむずかしいことを考えているわけでなく、そういうイメージを彼らはKaiというのである。

だがら窓をガラッ、お湯がボコボコ、車のエンジンがブロロロ、大砲がドーン・・・すべて「開」であり、イメージでとらえれば全は一、一は全。(鋼の錬金術師じゃないって!)

すくなくともどの外国語辞典も、そして国語辞典も、主要動詞と形容詞に関してはこういう『イメージ描写』ができる、と高島氏はいう。
ここまでくればあとは一気呵成だ。
高島氏は日本語、国語辞典の「とる」を例示する。

魚や貝をとる、網棚のカバンをとる、泥棒が人の物をとる・・・(略)しかし日本人ならだれでもわかるように「とる」ということばの意味はひとつである。そのイメージはおおむね、他物(離れたところにある物)をひきよせて自己のものとする、といったところだろう。それがいろんな局面でつかわれるだけのことだ
ところが辞書によっては、その一つのことばにいろんな漢字をあてて別項目とし、まるであてる漢字によって別のことばになるみたいに書いてある。あれは甚だよくない
個人が文章のなかで「とる」という二音語をあるせまい一局面に限定して「採る」だの「撮る」だの書くのは勝手だが、辞書までがそんなことをする必要はない。日本語の「とる」は一つなのだから――。どうしても何か一つ漢字をあてたいのなら、全部「取る」でもいっこうにさしつかえない。

あとは蛇足。
高島氏のもとには、実際にこういう「変える」「代える」の使い分けを教えてください、というような手紙がよくくるらしい

使い分けがわからないのは意味のちがいがないからだ。日本人は何かがこれまでとちがったものになるのを「かわる」と言い、人が何かをこれまでとちがったものにするのを「かえる」と言う。それだけのことだ。
もしだれか、あてる漢字によって別のことばになるのだから使いわけなければならない、などと言うやつがいたら、「アホかおまえは。漢字は日本語のためにあるわけじゃない」と笑ってやればいいのである。

以上、同コラムより。


ぼくの意見・・・「厳密な根拠なし」の前提のもと、あえて細分化するのもありじゃない?とは思う

というのは、これも高島俊男氏の同趣旨の指摘なのだが「予言者預言者を使い分けよという主張があるが、あほらしい。そもそも『預』と『予』に漢字は本来、区別がないのだから」と。
この主張は反響を呼んだ。
【参考】
http://d.hatena.ne.jp/zaikabou/20060616/1150470968
そして、はてなキーワードおよびウィキペディアに痕跡が残っていますので、興味ある人はクリック。。
預言者はてな
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%C2%B8%C0%BC%D4
預言者ウィキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85
「預」は「豫」(「予」の旧字体)の俗字であり、中国では「預(あらかじ)め語る者」の意味でしかない。一方、日本では「預」に「預かる」という本来の用法にはなかった意味が加わっていたことから、漢語としての由来を知らぬ者が、プロフェーテースの原義に引きずられて、神の言葉を「預かる」者が「預言者」、未来や人の運勢などを予め語る者を「予言者」と理解した。
本来は「副詞+動詞」という構造であった「預言」という語を、みだりに動賓構造(動詞+目的語)に置き換えることは明らかな誤りであるとしてこれを問題視する見解もあるが[5]、他方で上記のような誤用の経緯をきちんと踏まえた上で、「神の代弁者」と「未来を語る者」とを区別する便宜的な訳し分けとして存続してもよいとする専門家もいる[6]。

 
有名ブロガーのid:finalventさんも、この二つをわけるべきとする
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20070627/p3

finalvent 『BigHopeClasicさん、こんにちは。高島先生のそれは既読です。この説については知っています。単的にいうと高島先生のユーモア(イロニー)か誤りだと思います。3が成立するなら近代日本は中国の属国であり、そして日本では西洋文献の翻訳が成立しません。実際には歴史はその逆で、日本人が西洋文明の翻訳のためにたくさんの造語を行いそれによって日本語を拡張しました。我々の日本語文化はその継承にあります。予言と預言をごちゃまぜにすると聖書すら翻訳できません。と、いうふうに私は考えていますし、字引などでもこの二つは分けています。近代日本語の用例からも支持されるだろうと思います。』

で、考えてみるにたしかに「預言者」をモーゼやムハンマド、「予言者」をノストラダムスとすると使い勝手がいいんだよ。

語源的には本来は同一、ただ便宜的に使い分けます・・・とした上で使い分けるというのはいいのではないだろうか。

これは英語に詳しい人に聞いたのだが「パウンド」というのは別に英語本来では、立ってる人間にアッパーだボディだ・・・と殴るのもありらしい。だが少なくとも日本の雑誌ではいま「パウンド」はMMAルールの中でグラウンドの相手を殴ると言う意味にほぼ特化されている。

「撮る」という言葉は写真伝来以降だろうが、だれが「撮」に「と」をあてたのかな?

という話を、以前に書いた。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20111224/p2

ふと「そういえば写真を”『撮』る”と表記した人ってすごいよね。一大発明だよね」と感じたのですね。
ホトグラヒー(写真)が入ってきたとき、それをどう表現するかは翻訳者の才覚しだいで・・・ただ、新しい概念の「名詞」は、ああこれは新語にしなきゃ、訳さなきゃって分かりやすいと思うけど、動詞はねー。しかもそこにどの漢字をあてはめるか。だれが考えたのかな。<写真を”撮る”>って書き方。
それでも日本は「○○『する』」とするをつければいいからまだ無節操に受容しやすいのかも。韓国語や中国語と比べてみてもおもしろいかも。
あっ、というかあっちだって写真を発明した人??が、それを…「take」だっけ?そう表現したのはなんでなんかな。

そして、そういえばコンピューター用語だが……。
あれだって、翻訳者が違えば違う用語だったのかもしれないよね。
コピー&ペースト、略して「コピペ」。定着したとは思うがご年配に通じるかというと微妙。「切り取り&貼り付け」のほうが理解は楽だな。(コピーは定着したが、「切り取り」は日本語で…ああウィンドウズなどの表示訳がそうか)
しかし、「ペースト」って日本では、パソコンの言葉として使われる以前は「ペースト状」とかのイメージのほうが強かったんじゃないかなァ。ならば訳者の才覚によってはあれを「貼り付け」ではなく『塗りつけ』と訳されてもよかったのでは(笑)どろどろのものをぺったぺったと塗りつけるような。別にそうであっても結果は変わらないし。