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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「サマーウォーズ」、深町秋生ブログでの批判を考えた (副題〜「世界を救うのは僕らだけ」を「あとの奴らはみな愚民」にしない演出とは)

繰り返しますが本日を初日にCS「日本映画専門チャンネル」でサマーウォーズをノーカット放送。
http://www.nihon-eiga.com/prog/003376_000.html

で、この機会に地上波放送の直後に発表されはてなで大きな反響を呼んだ「深町秋生のベテラン日記」におけるサマーウォーズ評を読んで以降、考えていたことをまとめてみたいです。
その評論はこれ

■2010-08-13 アナーキーな自警団「サマーウォーズ
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20100813
そのはてブ
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20100813

実は自分は、地上波放送をリアルタイムでは見ておらず、上のブログが話題になってから撮り置いたものを見たので引きずられた〜というか、指摘された上で見ないと分からなかった〜ようなところも多々あるが、ここに出ている「細部の不自然さ」についてはなるほどと思うところが大半だった。


フィクションを作るときには当然ながら「ウソ(不自然)とわかっているけど、他のメリットを考えたらここは承知でウソをつく!」という決め球のウソもあるし、「リアルな説明に置き換えることも可能なのに、考える手間を惜しんでご都合主義のウソ(不自然)を書いちゃった」という失投のウソもある。
「ストーリーや設定のウソ・不自然さには細部も含めそもそもこだわらない。別の魅力で楽しみたいので」というファンもいることは知っているので、これは個人の趣味だと強調するが、やはり自分は「失投」部分が極端に少なく、細部まできっちり説明できるような作品が好きです。
そういう点で、この映画は深町氏の指摘する部分も含め、もっと自然なウソをつける余地があった(失投を減らせた)と思います。
逆に言うと深町氏が全体的にこの映画を低評価しているのとは別に。”深町的存在”が脚本段階から参加し「この場面、不自然じゃね?」「もっとうまく説明できないの?」と付箋をつけて返す…というようなことをやっていればとは思います。何かの本で名作の脚本は、多くそういう「脚本を読んで不自然なところにいちゃもんつけるだけ」の存在を多数そろえてチェックさせる…と聞くんだが、そういう例は言われるほど多くないのかな?

例えば素人レベルで、深町指摘の細部を修正するなら…

もしくは、「シャーロキアン的にウラの説明を考える」のも兼ねる。

「…健二は、翌朝には指名手配犯となって、早々にテレビで顔写真がさらされる。まずこれに違和感…テレビという巨大メディアが少年の顔写真を載せるとは思えない。しかも目を黒線で隠すなんて。現代の報道番組では…」

 →これは「大画面で、目に黒線の主人公が大写し!という場面をどうしても描きたい」という「決め球のウソ」かも知れないが、もしそうではないなら深町氏が例にしたように「過激が売り物のメディアや2ch的サイトでは顔写真・実名を暴露。ぼかした表現をテレビで聞いた主人公が慌ててそっちにアクセスしたら顔写真がどーんと出ていて思わず絶句」とかに書き換えられるかなあ、と。

「主役の健二君は、なにもこの暗号解読にひとりで奮闘する必要はなく、アカウントが解放される後半などは、自分と同じような世界の天才数学者と共闘すればよかったのではないか…」

 →たとえばOZの中では敵プログラムが目を光らせており、主人公がそれを公開・共有しようとすると相手はその対策をとってしまう。結果的に自分ひとりで考えるしかない…とか。これはシャーロキアン的にウラ設定でそうなってる、と考えて納得できるかも。

…どういうわけかOZにいる無数のアバターは、「ぼくたちを守ってくれ」と主役たちにお願いし、なんだかよくわからない日本のカードゲームのために、世界中の人間が自分のアカウントを主人公たちにあっさり預けて…

 →例えばあのヒロインのアカウントはいきなり登場した無名の人物ではなく、この世界の花札で以前大活躍し世界中に名前の轟いたものの、途中で消えた伝説の…だったとか。「え、あれは先輩だったんですか?」。あの親戚の子(格闘ゲームでのレジェンド)との繰り返しギャグになっちゃうけどね。またあの世界ではすでに花札がOZワールドでは一番人気のポピュラーなもの、という設定にすればどうでしょう。いくら天才数学少年でも花札のルールは一発で飲み込みにくいと思うし、主人公とおばあちゃんの花札のやり取りの中で「OZという世界では花札がいま大人気で、世界の誰でも知ってるゲームになってますよ」「おやまあ」なんてやり取りをしてればどうでしょうかね。


……まあ、こういうふうなことを素人が提案しても、演出面での問題や時間の制約、他の不自然点などがぽろぽろ出てしまうのはおそらく間違いないでしょう。ただまあ、別のルートもあり得たかも、というのを自分なりに納得する程度には至ったです。

ある程度「素人の精神論が専門家の精神安定剤になる」ことはあるかも

「社会がパニックに陥っている」と判断したおばあちゃんは、なにやら警視総監にまで意見をするのだが、世にとってこんな迷惑な行為はない。見ていれば単なる精神論……「頑張れ、落ち着け、やればできる」という程度で混乱が収まるのなら、世界はじつにちょろいものだ。アドバイスをもらった警視総監は頭が痛かったのではないか。この非常時に必要なのは、事態を解決できる専門家の冷静なアドバイスであって、田舎の90歳にもなるおばあさんの久しぶりの電話ではない。

これに関して、高坂正堯佐高信の対談があります。

以前この対談を自分は
「それにしても高坂氏はこの対談で、合気道の名人の如く佐高の議論を次から次へと(言葉は優しいのだが)一言ふたことであやし、自爆させ、切り捨てている。」
と評したことがあるようにとっても面白い対話なのだが(佐高信の頭の悪さがよく伝わる)、この中で「吉田茂佐藤栄作安岡正篤なんかを師と仰いでいるからけしからん!安岡と疎遠だった田中角栄三木武夫は偉い!」という佐高の言葉に「ありゃあ、おじいちゃんとあれこれお話するという精神安定剤みたいなもんですな。僕は政治家はブレーンの政策論をあれこれ聞くより、おじいちゃんとのおしゃべりで落ち着くほうがいいと思いますよ」(大意)と返すくだりがあります。政権の政策ブレーンの役目を何度も務めた本人が言うところが京都風というかなんというかだが、確かに「素人の精神論的な励まし」が、孤独な実務リーダーの支えになることはあるのだから、このへんの描写は個人的にはセーフかと思う。
 
もちろん救急隊にかけるのはマズいとか(笑)、多少の修正はしたほうがいいと思うけど。「現場は忙しい」のもしかりですが、これは「被災地や事件現場に国のトップや象徴はいつ行くべきか」という話にもつながっていて、実務側の佐々淳行は「すぐに来てもらったほうがやっぱり士気が上がるので来てほしい。ただし邪魔をしないやり方で。そのやりようはある」ということを言うてました。

あるいは脚本上、「このおばあちゃんに、精神論ではないもっと役に立つ立場を与えたい」ということなら…”裏社会にも精通したフィクサー”になってもらうとか(笑)。これを政府の失策だと攻撃しようとする野党に「今はそんなことやってる場合じゃない!一丸で対策するのよ。大連立を組んでもいい」と工作するとか「組長さん?いつも世の中に迷惑かけてるんだからこんなときは若い衆を出しなさい!今はXXXの作業を人力でやるしかないんだから、人手はいくらあっても足りないよ!」と、アウトでローな集団に電話するとか…造型壊しまくりだな、失敗(笑)。

お婆ちゃん&一家が「リアル田舎名家」とかけ離れたリベラル家庭なのは「決め球のウソ」だと思うのでこれはいいや

http://togetter.com/li/58643
から町山智浩氏の感想抜粋。

アジア人が家長制に抑圧されてきた歴史を知らない監督には、それがただ素晴らしいものにしか見えず、その伝統に逆らう者は子どもにしか思えないのでしょう
 
父の実家は文化財に指定されてる旧家なんですが彼はそれが嫌で逃げ出して一度も戻らなかった。墓参りや葬式にも出なかったので裏切り者扱いされてました。死後に代わりに僕が行ったらサマーウォーズどころじゃない体験しました。どこかに書きますよ。

対話している人のエピソードも面白いが、ここは甘いといえば果てしなく甘いのでしょう。細田守監督は「実際に信州出身の嫁さんと結婚して家族づきあいを体験したことが元になっている」というから、本来持っている大家族のわずらわしさや抑圧もたぶん知っていて、その上でこれは「決め球のウゾ」をやっていると思います。それに「この映画、わたしたちがモデルなんですって?」と監督の親戚一同が見に行ったでしょうしね(笑)。
これはいいかなあ。
あと、「本来だったら抑圧的であっておかしくない名家がリベラルで…」という設定の「龍」が好きだったので、それで慣れたというか否定したくないというのもある(「龍」は母親すらいない、大家族とは無縁の話だが)

龍(RON) (1) (ビッグコミックス)

龍(RON) (1) (ビッグコミックス)

「世界の危機を救えるのは僕らだけ!」という物語で「他の皆さんもがんばってる、力を借りたい」とするにはどーすべきか。

いよいよ本題です。上のあれこれは本題前ということになる。
はい、認めますが構成ミスです(笑)。

自分や友人や親族以外は、みんな無能の百姓で、とるにたらない子羊であり、『三国無双』で、豪傑の武将に0.5秒で斬り殺される雑兵であるとでも主張するかのようだ。対等にものを言える人間がまったく存在せず、世界は彼らにもたれきっている。…(略)…この一族以外にも世界には、称賛するに値するすばらしい人間たちがいくらでも存在しているという敬意や怖れがまったく見られない。だからこそ、この一族だけで戦わなければならなくなるような制約が絶対に必要になってくる。

もっともな感想と思いますが、これはひょっとして「サマーウォーズ」にとどまらず「ヒーローたちが世界の危機を救うため、巨大な悪と戦う」という物語をつくる際、かなりの副作用として存在するんじゃなかろうか、と感じたのです。
そこから「じゃあ自分が記憶する中で、これを免れたものはあったかな。印象的な形で『ヒーローとその仲間だけじゃない。みんなの力で世界は救われたんだ』となったものはあるかな…」といろいろ考えてみた。
 
(その前に一応例外を。「世界の危機をそもそもほかの人はだれも認識せず、人知れず巨悪と戦い人知れず地球を救う」という話ならこの問題は免れる。ぱっと思いついたのは、ながいけんの「笛座輪芸」氏だが、往年のファンロード読者以外誰もついてこないのでこの話は打ち切る(笑))
 
いろいろ考えた末に思いついたのは…桂正和氏の「ウイングマン」のクライマックス。第一部ではまさに「人が知らない危機を、知らないうちに救う」というものだったが、第二部のラストでは敵も堂々と地球征服を宣言、世界の「暴力装置」をつぎつぎ打ち破っていく中で、主人公のウイングマンは、自分の変身能力を、すべての人類に分かち合うのです。


 
そして群民蜂起というか革命勃発というか。草奔崛起というか。

 
ただ、最後はヒーロー、主人公にパワーが収斂されていって、そこで話としてはすっきり「最後の決戦」に持っていく。

ウイングマン 7 (集英社文庫(コミック版))

ウイングマン 7 (集英社文庫(コミック版))

ウイングマンこと広野健太はみんなの期待と夢の力を得て、帝王ライエルに決戦を挑む!! 果して地球の平和を取り戻せるか? 英雄浪漫ここに完結!!

……そうそう他の作品に応用できる仕組みじゃないね(笑)。映画「T.R.Y」でも、最後は民衆が立ち上がって…というオチではあるが、「騎兵隊が駆けつけてくれた!」の変形っちゃ変形かもしれんし。
ただ、最後に一般大衆のウイングマンが主人公のウイングマンに一体化される(そのパワーで巨大化する)シーンを見たとき、サマーウォーズでも、アカウントをヒロインに委託する人たちも、それぞれの持ち場でコンピューター・ウイルスと戦うレジスタンスであり、そういう人たちが敢えて彼女に運命を託した…といった演出だったらよかったのかなあ、と思いました。


と、まとめに入ったこの瞬間「そういや『うしおととら』も『主人公たち以外の普通の人たちも、その持ち場持ち場でがんばってるよ』という描写はうまかったなあ」と思い出した(笑)。

うしおととら 文庫版 コミック 全19巻完結セット (小学館文庫)

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うしおととら (1) (小学館文庫)

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だが、そこまで展開できるはずもないので、それは投げっぱなしにしておしまいにします。

このエントリを読んでくださった皆さんにも尋ねてみる。

【募集】皆さんは「俺たちしか世界を救えない」という面と「他の名も無い人たちも頑張っているよ」という面を上手く両方織り込んだヒーローものに心当たりありますか?あれば教えてください

※【補注】この記事には当時、ブクマとコメント欄でいろんな実例を教えてくれたのだがダイアリー→ブログへの移転時に、それらの多くが失われてしまったようで残念です。