毎日新聞「発信箱」より
信箱:1票の無言=玉木研二
菊池寛の短編「入れ札」は、役人に追われる国定忠次が、連れて行く子分3人を11人の子分たちの入れ札で選ばせるという物語だ。今でいう無記名投票。逃避行中の上州山中で、鼻紙を長ドスで切った札が配られた。誰が腕と度胸を高く身内に評価されているかの人気投票でもある。
筆頭の兄分で、選ばれなければ格好がつかぬ九郎助(くろすけ)は焦った。若手が台頭している。九郎助は、多くの者が表面こそ自分を「あにい!」と立てるが、内心では軽んじているのを十分知っていた。
多くの票は期待できない。彼は恥を忍んで自分の名を書く。果たして−−。昔ラジオドラマでこれを聴いた時、思わず緊張したものだ。
開票結果。若手らが選ばれ、九郎助は1票だった。自分が書いた札である。誰も気づいていないが、彼は恥ずかしさに身もだえし、自分の道を急ぐ。そこへ後ろから古顔の弟分が声をかけてきた。愛想よく、九郎助が内心その票をあてにしていた男だ。
その彼が平然と言う。「あんたの名を書いたのがおれ一人だとは。あいつらの心根が分からねえ」。九郎助はドスの柄を握った……