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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

」サルコジの「カジュアル(=英米化)革命」について

毎日新聞「記者の目」
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/news/20070529ddm004070151000c.html

・・・最近、来日したフランスのワイン業者が一様に嘆いている。サルコジ大統領はアルコールをたしなまず、ワインにまったく関心がない、と。

 シラク前大統領は個人的にはワインよりもビール党だったが、農業大臣をしたこともあってワイン振興には熱心だった。農業見本市などでは生産者と一緒にワインを飲んでみせるなどパフォーマンスに努めた。

 しかしサルコジ大統領は自身が飲まないとなればワイン振興の旗振り役は務められない。業者にとって国の顔である大統領がワインを口にしないのは痛い。

 ワインは個人的な嗜好(しこう)にすぎない。ただこの一事が示すように・・・・就任式を終えたサルコジ大統領は、メルケル独首相との会談のためベルリンに飛んだ。独首相と会うと、同大統領は駆けよって肩を抱いたのだ。直截(ちょくせつ)的な気取りのない仕草。(略)
 仏紙は「シラク前大統領なら、うやうやしくメルケル首相の手をとり、こうべを垂れて接吻(せっぷん)の仕草をしただろう」と書いたが、その前のミッテラン元大統領、さらにその前のジスカールデスタン元大統領も同様にしたはずだ。女性に対する最大級の敬意の表現だ。

 前大統領まではフランス流のスノビズム、いうならば上流階級気取りとでも言うべきエリート臭が随所にあった。またそれが支配層の優雅さ、寛容さ、ゆとりの表現でもあった。しかしサルコジ大統領はそうしたスノビズム、エリート主義とは無縁だ。

・・・就任式に、夫人はイタリア・ブランドのプラダのドレスで現れた。こうした節目の祝典に、これまでの大統領夫人が他国のブランドを着ることは、私の知っている限りあり得なかった。

 ファーストレディーにとってもデビューの日。目の肥えたファッション・ジャーナリストは早速「セシリア夫人、プラダで現れる」と書いた。

 もしシラク前大統領のベルナデット夫人なら・・・フランスのトップブランドを身につけたはずである。これが世界のモードをリードすると自負するフランスのファーストレディーの矜持(きょうじ)だ。

 イタリアのプラダを頓着せずに着るところに、よく言えばフランスの文化や伝統に対するある種のこだわりのなさを感じるのだ。・・・・・・従来のフランスのエリート層が当然としたものを、当然のものとして受容できない心理が2人にはある。

 サルコジ大統領は米国に親近感を示す。米国を全面肯定はしないが、シラク前大統領のように対米けん制のためにロシア・カードを使うのは本末転倒だと考える。価値を共有するのは米国とであって、ロシアとではない。この明確さは、米国に対する二律背反の複雑な感情をもつ従来のフランス大統領にはなかった。

 市場主義の競争導入も含め、フランスが必要としたのは実はこのサルコジ大統領の非フランス的要素ではなかったかと思う。それは日本の小泉純一郎前首相に通じるところがある。(略)

この続編的コラムを、この記者氏は土曜か日曜の海外面に書いていたな。
僕はべつにフランスに行きたいとかはあんまり思わないんだが、フランスがフランスであろうとするとき、それは「痩せ我慢」とでもいうべき「独自でありたいから独自にやっている」という無理というか作為があったんじゃないか、という気がする。そしてフランス好きにとっては、それこそが魅力なのでしょうな。



そして、司馬遼太郎が前、「文明」と「文化」の分類をしている(山崎正和氏が異論を唱えているそうだが)
amazonの「アメリカ素描」

・・・普遍性があって便利で快適なものを生み出すのが文明であるとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそういうモノやコト、もしくは思想を生みつづける地域はないのではないか。―初めてこの地を旅した著者が、普遍的で合理的な「文明」と、むしろ不合理な、特定の集団(たとえば民族)でのみ通用する「文化」を見分ける独自の透徹した視点から、巨大な人工国家の全体像に迫る。

アメリカ素描 (新潮文庫)

アメリカ素描 (新潮文庫)


司馬の本にも書いてあったようだが、フランスもまた小さいながらも「文明」たらんとしていた、のだが、文明競争の中で「アメリカ文明」ってやっぱカジュアルで便利じゃね?ということになった感もある。


でねえ、アメリカカジュアル文明ってやっぱり楽なんだわ、ラク
人間、ラクをし過ぎるとよろしくないのは事実だし、うるわしい礼儀作法というのは基本的に窮屈で煩瑣なのだが、いやあやっぱりこっちに流れていくね。クールビズも首尾よく定着しつつあるようだし、前から言ってるように、ホリエモンも他は兎も角「公の場所でTシャツでもOK」をアピールして欲しかった。
本場のアメリカでもなかなかそこまでは行かないようだけどね。


自分も、「国家」の有用性、重要性を認めるという点では人後に落ちないが、そこに過度の装飾性(伝統など)を持つ必要性は感じていない。(逆に無理やりそれを捨てろ、という意味でもない。英国議会の伝統などを面白がってみているおうに)
国家はその機能性だけで、十分に存在価値を持っていると思うからだ。


三島由紀夫はその最晩年の文章でこう書いているそうだ(切腹事件の4か月前)。

・・・このまま行ったら「日本」はなくなってしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。
日本はなくなって、その代はりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」三島由紀夫
(1970年 昭和45年 7月7日 サンケイ新聞 夕刊より)


自分は、逆に言うと「無機質上等、中間色上等。極東の『或る経済大国』を維持できれば御の字だ」というぐらいのつもりだ。さらに逆に言うと「国が、無機質な中間色になれたら大したもんだ。意識的になろうと思ったってなれるもんじゃない」という驕りというか根拠無き自信もある。
さてどうなるか、日本の足元も見つめつつ、フランスの行く末も横目で眺めてみよう。