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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「安倍首相・小沢氏が補選応援 与党は「2勝」が至上命題」(新聞サイトより) ←この「至上命題」について

http://www.asahi.com/politics/update/1014/007.html

安倍首相・小沢氏が補選応援 与党は「2勝」が至上命題

 安倍首相は14日、衆院神奈川16区補選の応援で就任後初めて街頭演説に立ち、2、3000人の聴衆を前に内政や外交の課題をまんべんなく訴えた。一方、民主党の小沢代表は13日に応援に入り、郊外でビールケースに乗って政権批判をぶった。新政権が高支持率で滑り出した勢いで衆院大阪9区とあわせ「補選2勝」をめざす与党と、一矢報いたい民主党。約1週間後に結論が出る。

(略)

 ・・・与党内では「2勝」が至上命題となっている。両選挙区とも自民党議席だったことに加え、北朝鮮の核実験声明が対北強硬路線を走ってきた安倍氏への「追い風」になるとみられるからだ。それだけに、ある自民党幹部は「取りこぼすことがあれば打撃は大きい」と話す。「選挙の顔」としての首相の力に疑問符がつくことになるからだ

おなじみの議論で、私も呉智英氏の本で読んだ話なのですがね。それを受けて「猫を償うに猫をもってせよ」ブログでもおなじみの小谷野敦氏が書いた文章を引用しておきます。

・・・ひどい蔓延の仕方を呈しているのが、「命題」という言葉だ。これは、論理学の用語で、「文」と同じ意味であり、何かを述定している一文のことであり、それに対して「この命題は真である/偽である」といった判定ができる。ところが,作家山田詠美の短編集『姫君』(文藝春秋)の最後に収められた「シャンプー」は、冒頭から「猫が飛び降りる時、安全に着地出来るのは、どのくらいの高さが限度なのだろう。/という命題は・・・」とある。これは「命題」ではなく「設問」か何かだ。一九七八年に「群像」新人賞を受賞した中島梓の『文学の構造』(講談社文庫)を見ると、「『文学とは何か』という命題」とある。これも命題ではない。やはり「設問」である。これで文藝雑誌の新人賞を取っていたのかと思うと、今日の惨状を予告しているような気がする。最近の例でも、斎藤美奈子の『文壇アイドル論』(岩波書店)には「知識人と大衆という古典的な命題」(二三五頁)などと書いてある。
(略)
最近多いのはこの用法ではなく、「−−を至上命題として努力した」のように、「達成すべき目標」のような意味での誤用である。恐らく「至上命令」のつもりで、「命題」のほうが高級なように思って間違えるのだろうが、中学校の数学でも命題という言葉は教わるはずなのに、こういう誤用をするというのは、基礎教育が定着していないさまを現している。

Wikiの「命題」の項目でも触れられているか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%BD%E9%A1%8C

もっとも、

http://www.amazon.co.jp/gp/product/customer-reviews/4480814671/?_encoding=UTF8

・・・氏が念頭に置いておられるのは、一般に「事実命題」と呼ばれているものです。数学や論理学は原則的に事実(のみ)を取り扱うものであるため、そこで単に「命題」と表記されてもこちらを指します。
 しかしこれとは別に、「汝○○為すべし」のような形をもつ「当為命題」というものが存在します。これは必ずしも真偽という判断の対象にはなりません。したがって(小谷野氏が拒絶される)「至上命題」という言葉使いも、確かに純粋に日本語の過去の用法と照らし合わせた慣用的表現としては間違っているかもしれませんが、「今現在、他の何よりも優先されて為されて然るべきこと」などと解釈すれば、強ち見当外れな用法とも言えず、言語運用的にそれなりの妥当性を有していると思うのですがいかがでしょうか?
(後略)

との意見もある。
もっとも、「至上」という言葉との食い合わせが多少悪いというか不自然で、もう少し意味がずれていかないと完全なる定着は難しい部分もあるかとは思いますが。何にせよ、大新聞が大きく見出しにとったのは珍しいかも。これはネット上だけかな?紙面もそうなっているのかな?


「至上命題」のキーワードをつくってみようかしらん。
よし作った⇒至上命題



【補足】コメント欄から。

opechuman
『・・・「至上命題」について私見を。まず、大前提として「至上命題」における「至上」の部分が「絶対実現すべき」というような意味を表しているということを採択していただきたいです。そんなことない!mostのような意味しか持っていないんだ!と言われてしまうと白旗を上げるしかないです。それさえ認めてもらえれば、小谷野氏の言うように命題は真偽を問えるものでなければならないから云々という主張は的外れだといえます。


日本語文法学の世界では、あらゆる文は客観的な事柄を表す「命題」と命題に対する話し手の心的態度を表す「モダリティ(様相とも呼ばれる)」からなるとされています。例えば、「与党が2勝するべきだ。」では「与党が2勝する」が命題で「べきだ。」がモダリティとなり、「この使い方は誤用かもしれない。」なら「この使い方が誤用だ」が命題で「かもしれない。」がモダリティとなります。同様に「なんとしてでも2勝しろ。」という文でも、「なんとしてでも2勝する」という命題に対し「(し)ろ。」という命令形がモダリティとなります。この考え方に従えば、当為だろうが命令だろうが、あらゆる文でその内部に命題を含んでいることになるのです。


そして、「与党は「2勝」が至上命題」の場合、「至上命題」の「命題」が「与党が「2勝」する」という命題を指し、「至上」という修飾語がつくことで「与党にとって2勝することは絶対実現すべき命題」といった意味になると考えれば、なんら問題のない用法であると言えます。「至上命令」との対比で説明しますと
○「2勝しろという至上命令
×「2勝するという至上命令
×「2勝しろという至上命題」
○「2勝するという至上命題」


至上命令」の場合、命題とモダリティをひっくるめて指す言葉なので、「2勝しろ」が正解なのに対し、「至上命題」であれば「2勝しろ」の中に含まれる「2勝する」という命題のみを指すので「2勝する」が正解となると考えられます。』