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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

格闘技的に見た「空中元彌チョップ」の検証−−その恐怖!

映像を確認する限り、賢明な視聴者ならお気付きであろうが、和泉元彌の戦い方というのは、ある種ヒクソン・グレイシーのそれに似ているわけだ。
狂言全体がそうなのだが、「速さ」といってもただの筋力によるスピード向上だけを狙っているのではない。「緩急」といえば簡単だが、またそれとも違う。


あれは「無拍子」の極意というものであって、自分の「静」の間合いに、相手を催眠術のように引き込んでしまうのである。かつてヒクソンと寝技になると、技術をよく知っている筈の相手(高田延彦など)が、全く不思議なことにするするとマウントを取られてしまうというのが、これに近いだろう。


それは序盤の張り手、中盤に見せた和泉元彌のエルボーを仔細に観察してみるとよく分かる。
その打ち込むタイミングが、千分の一秒の差で微妙に健想の「受けの間」をずらすことで、ダメージを蓄積させていっていることに気付くはずだ。それはまた、守りにも応用されていて、あれだけの大男のニーやバックブリーカーも、その「間」のずれ、無拍子の世界へ相手を引き寄せることでほぼ無効化したのである。
これは狂言のほか、能でも歌い継がれている「橋弁慶」での、牛若丸と弁慶の戦いの極意がそのまま伝わっていることは、もちろん申し上げるまでもないであろう。


もともと、能狂言は、武士階級に保護されているという歴史的事実があるが、これは実はブラジル・カポエイラと同様の意味がある。血と死に隣接した、一段低い「ケガレ」た階級であり、しかも実力は備えているので自分たちの地位を脅かされると考えた平安時代の貴族階級は、武士間で戦いの技術をおおっぴらに伝え合うことを望まなかった。


同時に、武士が実権を握った鎌倉幕府の時代に入ってからも、今度は日本史上最大の戦略家にして武芸家であった源義経軍事学・戦闘術が、源頼朝との確執によって義経がモンゴルに亡命して以来、正統の地位を追われてしまった。
そこで、それらの系譜−−武芸の極意は、能・狂言という形に託して後世に残されるようになったのである。(民明書房刊「中世遊芸・武芸異考録」参照。


さらにそれは、いわゆる伊賀・甲賀の忍術とも融合したほか、近畿地方では楠木正成の一族に代表されるような、ゲリラ戦マニュアルの流れもくみ、深化していった。


世阿弥もしかり。
松尾芭蕉もしかり。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/zuihitsu1.htm

・・・昭和三十七年に上野市の旧家から発見された上嶋家文書によると、伊賀服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の兄弟であるのだという。
(略)
甲子夜話」という書物に残されたある逸話を紹介したい。三代将軍徳川家光が兵法指南役の柳生但馬守宗矩と、観世太夫の能を見物した時の話しである。家光が但馬守に、「観世太夫に斬り付ける隙あらば申してみよ」と、言い含めての見物であった。
 能が終わって、宗矩は家光にこう答えたという。「少しも斬る隙はございませんでしたが、大臣柱の方で隅を取った時、わずかに隙があったように思えました。あるいは、あの時なら斬れたかも知れません」
 一方、観世太夫も楽屋に戻るとすぐに付き人に尋ねた。「上様のお側近くで、私の所作を鋭く見ておられた御仁があったが、あれは何者ですか」
付き人より宗矩の素性を聞かされて、観世太夫は感じ入った様子でこう続けた。「なるほど、途中、私が隈を取るところで少しばかり気を抜くと、ほんの一瞬だが、白い歯を見せられた。流石は、剣術の達人です」

 これを聞いた家光は、ふたりの極意に感じ入ったという。


http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0829.html

・・・宝生寺にはこのほかにも、兵法歌百首、八通の目録なども残っていて、そのすべてが能の金春流との交流を証かす。石舟斎が金春七郎氏勝と親交があったためである。いつかそのことも書いておきたいのだが、この金春七郎は慶長15年に35歳で死んでいるものの、ずいぶん武芸達者の者だったようで、宝蔵院胤栄から槍術の印可をうけたのをはじめ、神道流長太刀、大坪流馬術にも長けていて、とりわけて晩年の石舟斎の刀術に惚れこんだ。そこで金春からは「一足一見」という秘伝が、柳生からは「西江水の一大事」などが相伝された。

また、新撰組は”壬生狼”とも呼ばれていたが、その壬生寺では独自の「壬生狂言」が受け継がれていることも記憶にとどめておくべきだろう。
もちろん「橋弁慶」も演目の一つだ。

http://www.e-kyoto.net/topics/mibu/



しかし、元彌の戦いぶりは、これら能・狂言の伝統をさらに広げたどころか、ある種敵対するものまで取り込んでいることも分かる。
そう、それは最初の「ドタキャン」をめぐる心理戦と・・・、そして、宮本武蔵の兵法である。

上の引用文にあるように、能狂言の「武」は宝蔵院流槍術の流れと、柳生の流れをくむものだ。
宝蔵院流は、言わずとしれたことだが宮本武蔵と直接対決をしているし、柳生も武蔵とはある種のライバルであったことはご存知の通り。


しかし、敵こそが最大の理解者であるというのもまた確かなことである。「五輪書」と「風姿花伝」の類似性も、とみに指摘されるところだ。
もともと狂言界の反逆児であるからこそ、あそこまでおおっぴらにしたこともあるのだろうが、まさに最初の「ドタキャン騒動」こそは、宮本武蔵の巌流島の兵法であり、あの時点で既に勝敗は決したといっていい。
鈴木健想とその妻の、あの焦りは、やはり気の毒ながらアメリカで暴れている中で日本の「武」を忘れたがゆえの失態であったろう。



さて、そして最大の謎「空中元彌チョップ」である。
怪力無双のケンゾーをああもあっさりとKOした、あの技の秘密は何か。
これは、簡単に言えば元彌はケンゾーを「絞め落とした」のである。がっちりと足でロックして、相手の上半身の血流を止め、そして鍛えようのない脳天に岩をも砕くチョップの雨あられを降らせれば、どんな大男もひとたまりもないは道理・・・・・。

奇しくも須藤元気が、今やUFCでバリバリのトップであるネイサン・マーコートに勝利したのが、同じく三角締めと、脳天への肘爆弾だったことは記憶に新しい!(このへん、梶原一騎調)。

げにおそろしきは、初代岳楽軒から560余年続きし和泉流の底の深さよ!!

【エピローグ】(これは極秘情報として、関係者から聞いた控え室の様子を再構成したもの)


デビュー戦を華々しく飾った、和泉元彌の控え室を一人の若者が突然尋ねてきたという。
関係者、「な、ナンダッ君!ここは関係者以外立ち入り禁止だっ」
若者「まあ、そう固いこと言いなさんな」
元彌「あいや、お通しあれ。その方は我の客人、そう、六百年前からの客人じゃ」
関係者「はぁ?」といぶかしがりながらも彼を通す。


若者「はじめまして、というべきかな」
元彌「いや、「お久しゅう」と言うべきだろうな。貴方のことは聞いている。そう、初代岳楽軒から・・・お話をよく伺ったものよ」


若者「あの試合、遊んだな」
元彌「当然だろう。貴方が来ていることは分かっていた。はるばる南米からお帰りになったのだから、多少は興を呼ばぬとな」


若者「こわいなあ」 笑う。
元彌「拙者も、そなたが怖い」 彼もまた、笑う。



元彌「ここで、やるかね」
若者「いいのかい」


元彌「これは戯言を申した。強がりはよそう。汝とやるには、あとしばしの時を待たねばなるまい。」
若者「そうだな。しかし、そう遠くはないはずだ・・・一つだけ言おう。あの元彌チョップ、俺には通用しないぜ」
元彌「それは重畳。それがしも申そう。汝の虎砲も、蔓も、そして『四門』も、もはや和泉流には見切られるとな」


ひゅう、と若者は口笛を吹く。
「なんだよ。うちの先祖はそこまで見せちまったのかい」
元彌「敗れたとはいえ、初代はその伝を一族に残してくれたのよ。いやいや、そも、なんじら一族を追い求めて開かれたが和泉流!そなたにも、明るい未来は 見えぬぞよ」


「そうか。では、陸奥圓明流和泉流、近々六百年ぶりのランデブーと行こうか。弓矢八幡に誓うかい?」


元彌、微笑して「いやいや、弓矢八幡には誓わぬ。このそれがし自身、狂言和泉流二十世宗家・和泉元彌がただその身、自らにのみその誓い立て申す。」

陸奥九十九「それが賢明だ。・・・・・何しろ俺の先祖は、その八幡の化身、源義家に勝っている」

【補足】さすがに、このエントリを書いたあとは、
あまりの内容のばかばかしさに自分で感動したね。


【補足2】
このエントリの前に、先行作品として
http://d.hatena.ne.jp/duke565/20051104/p1
が発表されていた(2006、2/3)