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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「天皇はサルの子孫か?」−山本七平の著作より

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/10/post_bcc0.html


極東ブログ」は自分も何度も名前を聞いていた、有名ブログ。
ここで、一部では知る人ぞ知るでありました、終戦直後のフィリピン収容所で展開された、進化論をめぐる山本七平と米軍将校に関する対話が紹介され、評判を呼んだ。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

自分もこの「見えない道場本舗」をはじめたときから、この話を紹介した上でいろいろと書いてみたいと思い、開始後2月たらずの時に、別の話題に繋げて

<ここで30年近く前に「日本的原理主義について」(註;これはちょっと記憶違いで『日本的根本主義について』が正解)という考察を表わした(「空気の研究」収録)山本七平の「捕虜収容所の中の進化論講義」という有名なエピソードを思い出した人もいるのではないか

と書いていた。その後、実家の書棚から「『空気』の研究」を持ち出してはいたのだが、全部紹介するとなると文庫本で5ページ分にもなるのでスキャナーの無い自分ではちょっと手に余った。
今回、ほぼ同じ趣旨(山本と小室直樹の対談)が、それも何倍も影響力が大きいブログで紹介され、しかも自分の見立てどおり、多くの思考者がこれを下に多くの考察をし始めたというのが嬉しい。

ここでは異論が出ているが
http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20051004#p1

当時の日本人は現在の日本人(や多くの経済的に豊かな地域の人々)と同じく、生活と信心を分けて考えることができた、ってだけじゃないかしらん。若き山本七平に説教した米兵は、右の頬を打たれたら左の頬を差し出しただろうか。

要するに宗教がどれだけ実生活を規定しているかなんてのは五十歩百歩であって、それらが一致してないのは何も日本人だけじゃないだろう。

これはまず、宗教における生活規定は多く欲望の規制や道徳的生活を奨励するものであるから、酒は飲むなといっても飲みたいし、浮気はするなといっても不倫愛は止められない(そうか?)。右の頬を殴られたら「やりやがったな、倍にして返すゼ、フックだボディーだ・・・」と石原裕次郎チックな反応を示すのが当然だということが前提。


そういうわけで、宗教が個人の生活規定を100%統制し切れないのはある意味当然ではあるが(もし統制し切れるのなら、地上はすみやかに善男善女の天国となる)、それが宗教上の、主に教義に渡る諸矛盾を、どう処理していくかという話とは別物の話となる。
一将校が博愛の精神を実施していないというのと、実際に日本において、宗教でメシを食う層を含めて「進化論と天孫降臨伝説の矛盾」が、大きな社会的問題にならなかったということにはやはり大きな断層がある。

日本人に見られるという進化論や科学が無批判に受け入れられる傾向を、この実生活が宗教的でない(または隠れて宗教的である)ことが原因であるとする理由が僕には良くわからない。だって前者も後者も別に日本人に限って見出される特徴なわけじゃないでしょう。前者なんか単に批判的思考ができないことの結果に過ぎないわけだし、それは権威主義という名前まで付けられて世界中で見出されるものだ。

これに関しても、例えば権威主義によると仮定しても「肯定の神学」が出てこないのは何故か?という問題に突き当たる。矛盾した見解を権威によって受け取られるとしたら、多くの「権威主義」では、それを肯定するために御用学者らが巧言や美文をもって必死に取り繕いを行うことが多い。
「ふーーーーん、そうっすっか」で終わるのは、ある意味重きを置いていないがゆえにと考えるべきだし、そもそも明治以降、「科学・進化論」が、尊王主義をも圧倒する「権威」だったのだとしたらそれは何ゆえか?という大問題になるわけです。


また

それに(どうやら暗黙に当然とされている)これらを一致させるべきかどうかという問題だって単純に決まる話ではない。

に関してですが、山本七平は別に一致させることを素晴らしいことで、それをしない日本は遅れている・・・・みたいな立場はとっていないですよ。
もともと「日本的根本主義について」も、アメリカ知識人(フランク・ギブニー)との対話で「今にアメリカは、南部パブティストに征服される」という相手の危機感(その予言が、今・・・)を受けて、その種のキリスト教的な原理主義と日本との違いを受けての論考だ。
あちらの、徹底ぶりの例として取り上げたのはドイツの宗教革命家・ミュンツアーである。
まさか山本も、「日本人もミュンツァーのようになれ」という意味で紹介したわけではあるまい(笑)。


と、話が大いにわき道にそれた。上リンクで重要なのは後半部分で、

ところで進化論を反証不可能としてサイエンスではない、と否定するのはなかなかに味わい深い構造を持っているのだなあと今頃気付いた次第。というのも、反証可能性をもってしてある論をサイエンスかそうでないかとする基準とするならば・・・

最近、全国紙である産経新聞に進化論に関する「インテリジェント・デザイン(ID)説」を唱える科学者の大き目のインタビューが掲載された(もっとも進化論が専門分野の人ではない)。この「ID論」は、めちゃくちゃざっくり言うと

・進化ってすごく複雑です
ダーウィン論では説明できないことがあります。
・「仮説」ですが、進化を一定方向に導く、何かの意志があるかも。「神」とは言いませんよ。
・これも仮説、自然淘汰ダーウィン説も仮説。なら一緒に教科書に、両論併記しようね!
アーメン

みたいな、一休さんに因縁をつけるききょう屋さんのごときとんち説です。
アメリカでは、実際に一部で教科書に載っている。

もともと進化論がいまだ「?」の部分は多いわけで、その「?」部分にめちゃくちゃ都合のいい仮説を作り上げ、俺も仮説だ、君も仮説だとイーブンに持ち込む・・・科学の中に宗教をしみ込ませようとする、宗教側からすれば「守り」の戦術でしかないのですが、その分守りの面ではそれなりによく出来ていて、ああいえばこういうみたいな形で徹底的には追い詰めにくい感あり。

日本には浸透しないでしょうな。論争ではなく「普通に無視する」という形で。