【後からの補足::「本文」と「下欄に寄せられたコメント」の区別に注意!】
間が悪いことに、もう次の号が出てしまっているのだが・・・
ニューズウィーク日本版 05年4/6号にTOKYO EYEというコラムが載っている。
●在日外国人がタブーを斬る!辛口コラム「トーキョー・アイ」
という趣旨で、その回の筆者はフローラン・ダバディというパリ生まれの「作家、俳優」氏だ。(なんでも、サッカー日本代表チームがトルシエ監督時代には、同監督の通訳を務めた”サッカー通”らしい)
タイトルは「K-1は21世紀のグラディエーターか?」という題。
本来なら全文を引用したいのだが、最初の部分だけ抜粋しよう(※補足。最後の部分を見てください)。
「野蛮--『文化が開けていないこと・・・乱暴で人道に反すること』(広辞苑より)
1度だけ、K-1を生で見たことがある。殴打の音、骨の音、血が出るまで人間が殴りあう風景はとても気持ち悪かった。とりわけ不快に感じたのは、闘い自体でなく、むしろそれを見る周りの人間。冷酷なスペクタクル前に、ほとんど気を失っている血だらけの選手を前に、呪われたみたいに叫ぶ観客を理解できなかった。(略)『古代ローマと一緒だ!!』」
もともと、ニューズウィークはアメリカの報道はともかく、他の地域、ことに日本を含むアジア報道については極めてレベルが低い。そして、それに輪をかけて、コラムに関しては素人丸出しの低レベルな文章が多い(デーナ・ルイスなどはその典型だ)。しかしその中でも、このダバさんの駄文は酷すぎるとしかいいようがない。別に「広辞苑から書き出すのはベタすぎ」とか、そういう文章作法を言いたいのではない。論旨が滅茶苦茶だということだ。
しかし、ありがたいことにこの御仁は
『読者の皆さんと討論したいと思う。K-1はスポーツなのか』
『さて、みなさんはどう思う?』
『私に見えないK-1の魅力があるなら、教えてくれませんか?』
と仰り、その上ブログも開設されている。そこで役者不足は承知の上で、氏の文章に疑問と反論を提示したい。
まず、、このダバ氏が「理解できない」、というK-1を、なぜ人々が愛好するのか。
話は簡単で、コンペティティションであるからだ。ルールの下で、選手が勝利をもとめて切磋琢磨する。その光景が感動と興奮をあたえる。
要は、他のスポーツ・・・野球やバスケや、そして貴方が「日本代表監督のアシスタントを務めた」と麗々しく略歴に記すサッカーと、なんら変わらない。
それらを楽しむのと同様の文脈で、私を含めたファンはK-1を楽しんでいる。
要は、「なぜK-1を楽しめるのか?」という発想が意味不明で、「なぜK-1は(他のスポーツと違って)私は楽しめないのか?」とダバ氏は問うべきである。
ダバ氏はいう。
「私は、格闘技が1つのスポーツだと認めている」
まあ、建前というものであろう。氏がまともな知識を持ち合わせていないことは明白だからだ。
というのは、彼は格闘技をこう定義している。
「相手を痛めつけることが目的ではなく、技を通じて体を表現するゲームだ。
柔道や空手、合気道などは、気高い哲学と人間を尊敬する『道理』に基づいている」
よく調べもせず、日本文化を褒めようとすると、途端に始末の悪いオリエンタリズムを露呈するというのはよくある話で、今後は気をつけたほうがいい。
日本文化に尊敬心をまったく持ち合わせていない御仁の薄っぺらな建前でなければ、事実をみない御伽噺としての日本しか愛好しないという19世紀的発想なのだろう。
反論する前に、フローラン・ダバディ氏にこの「気高い哲学と人間を尊敬する『道理』」とは具体的にどういうものなのか説明していただくことを要求したい。このブログには、コメント欄が下にある。
参考までに申し上げるが、説明される前に司馬遼太郎「北斗の人」をお読みいただければ幸いである。
日本武道の多くは、買いかぶっていただくのは恐縮ではあるが、多くその「哲学」は、技法を神秘主義的な形で宣伝したり、もっと簡単にいえばハッタリを効かせるためのもので、幕末・明治になって合理主義を取り入れ、ある意味「哲学」を排除していったのですよ。
「その対極に位置するK-1には、気高さと人間性は感じない。そう思う理由の一つは、UFCというアメリカの格闘技の存在だ。高い金網に囲まれ、ほとんど最後まで闘うUFCを見たときにぞっとしたのだ。(略)金網の中にいる選手は、明らかに人間以下の扱いであった。まさに古代ローマと同じだと思わない?」
まず、金網の中で闘うというのは一つのルールであって、サッカーがゴールネットにボールを入れて、周りをラインで囲んでいるというのと何ら変わりない。アメリカの観客が大熱狂するのは事実だが、それはサッカーで皆さんのお国のファンが熱狂するのと同じですな。
「フィールドの中にいる選手は、あきらかに人間以下の扱いだった」とでも観戦記に書くのであろうか。
ここからが珍説。
「アメリカはスポーツの最先端にあるから、もしUFCがK-1の進化した姿だとしたらとても心配だ」
UFCとK-1はともに1993年開始(数ヶ月K-1が早いが)。システムとしてUFCがK-1の進化系、ってねえ。
2001年には、K-1がUFC的ないわゆる「総合格闘技」のルールをすでに混合させていることも、結局プロモーションとして「HERO’S」とK-1が分離したことも、総合格闘技において観客動員数や選手の質、メディア展開において日本のPRIDEがUFCの何倍もの規模になっていることを、知って書いた文章なのか、知らないまま書いた文章なのか。どっちにしても大問題だ。(「日本はサッカーの最先端にあるから、もしJリーグが欧州リーグの進化した形なら・・・」と書くようなもの)
そして古代ローマ(本当に氏に当時の知識があるのか疑わしいが。もっと遡って、古代ギリシャ五輪の主要競技であったパンクラチオンまで否定すればいいのに)だけでは飽き足らず、「シュワルツネッガー映画」まで持ち出し(失笑)、
「『死ぬまで戦うスポーツ』になるという不気味な予感までいだいてしまう」
結局、否定の理由は妄想ですか(笑)!!
激しいスポーツであるK-1は、アクシデントによる死者や重傷者の危険は常に付きまとう。(あなたが仕事に携わるサッカーと「全く同様に」ね!)
しかし、意図的に「死ぬまで戦わせる」スポーツには、おそらく今後150年ほどはならないと思いますよ。現実世界と映画の世界は、あまり混同しないでいただきたい。そうしないと日本在住者は、ゴジラの襲来におびえて夜も眠れなくなります。
さらにひどい愚論は続く。
「K-1について、もうひとつ不気味に感じることがある。それは、日本では女性ファンが多いこと。本来、男性に野蛮な動物的本能があるとしたら、女性はふつう暴力や殴り合いが嫌いで、子供や人間を守る使命を本能的に感じているはず」
一応国際的な雑誌で、これだけあからさまな男女の資質の先天的決定論をぶてるというのは大したものだ。氏の祖国でも、ヴィシー政権が続いていればこういう発言が一般に受け入れられていたかもしれないが・・・
サマーズ米ハーバード大学長、女性差別発言で窮地
http://myriel.jp/mt/news/archives/2005/02/news_11.html
と何が違うのだろう。私は、ちょうどダバ氏の愚論が掲載された号の記事にもあるように、「男女の性差」研究を、ポリティカルコレクトネスを振りかざし、最初から否定するような形は取るつもりはない。
しかし、だからといってダバ氏のような蒙昧な論説を認めるわけでは全く無い。
満天下に「自分は性差別主義者である」と宣言したといえるダバ氏にここは問うが、貴方がふりかざす「本能決定論」を裏付ける、きちんとした科学的な資料を出していただきたい。
「女性のエッセンスに反している気がする。そして、その無神経な見方がちょっと心配になってくる」
とまでK-1ファンの女性を誹謗中傷されているのだから。
【後から補足】敢えて、先ほど引用した、ダバ氏の「女性はふつう暴力や・・・(NW誌2段目15-17行)」というロジックをお借りして、別の文章を組み立ててみよう。””内の文章がそれだ【補足終わり】
まあ”フランス人はふつう論理的思考が嫌いで、自分の都合に合わせて思いつきで話をでっちあげることを本能的に行っているはず”
だからね。
(註:この””部分はまったく科学的な根拠も無い文章で、しかも特定のカテゴリーにある人を十羽一からげにステレオタイプ化したものだ。抗議が来る前に、酷い文章ですと謝罪しておく。ただし、こう続けたい。「酷い文章です・・・フローランの文章と同様に!!」)
とりあえずフローラン・ダバディさんに申し上げたいのは「あまり適当な文章を書くんじゃない」ということである。
さてTBを氏のブログに送ろうhttp://dabadie.cocolog-nifty.com/blog/