初めてTBさせて頂きました。内容は題の通り、貴方のNW4/6号のコラムが無知と妄想、性差別などの偏見にまみれた愚文、珍文だと論じたものです。誌上で「議論したい」「教えてくれませんか」と書かれた貴方なら、無視はなさらないと信じております。ひとつ、大いに議論を深めましょう。
(残念ながら、氏のブログにはコメント欄がないので、TBの冒頭だけは掲載されることを利用してご挨拶させていただいた。つまり、フローランさん宛だ)
【後から補足。ダバディ氏のコラム全文】
野蛮−「文化が開けていないこと。・・・乱暴で人道に反すること」(広辞苑より)
一度だけ、K−1を生で見た事がある。殴打の音、骨の音、血が出るまで人間が殴りあう風景はとても気持ち悪かった。とりわけ不愉快に感じたのは、戦い自体ではく、むしろそれを見る周りの人間。ほとんど気を失っている血だらけの選手を前に、呪われたみたいに叫ぶ観客を理解できなかった。
いや、それよりも、怖かった。その瞬間に気づいた。
「古代ローマと一緒だ!」
古代ローマの時代に、アリーナの中で人間とライオンが戦ったり、人間同士が死ぬまで殴りあう競技があった。
それは「ゲーム好きのローマ人」という現象よりも、当時の社会の暴力と未開、つまり原始的な生活を象徴していた。
グラディエーター(剣闘士)を前にして、ローマの市民は「死ね!」と叫び、人が獣に食べられる風景に大喝采を送っていた。
もちろんK−1は「死」まではいかないのだが、人間が殴り合う風景をエキサイティングだと思う心理自体は同じではないのか・・・。
だから今日は、読者の皆さんと討論したいと思う。K−1がスポーツなのかどうか。私は、格闘技が1つのスポーツだと認めている。相手を痛めつけることが目的ではなく、技を通して体を表現するゲームだ。
柔道や空手、合気道などは気高い哲学と人間を尊敬する「道理」に基づいている。
だがその対極に位置するK−1には、気高さと人間性は感じない。
そう思う理由の1つは、UFCというアメリカの格闘技の存在だ。
高い金網に囲まれ、ほとんど最後まで戦うUFCを見たときにぞっとしたのだ。 アメリカ人の観客はクレージーな叫び声を上げて、殴り合いをあおっていた。
金網の中にいる選手は、明らかに人間以下の扱いだった。まさに古代ローマと同じだと思わない?
アメリカはスポーツの最先端にあるから、もしこのUFCがK−1の進化した形だとしたら、とても心配だ。古代ローマと変わらず、シュワルツェネッガーの映画のように無神経と暴力に慣れきった近未来の社会が来たら、K−1は「死ぬまで戦うスポーツ」になるという不気味な予感さえいだいてしまう。K−1について、もうひとつ不思議に感じることがある。それは、日本では女性ファンが多いこと。
本来、男性に野蛮な動物的本能があるとしたら、女性はふつう暴力や殴り合いが嫌いで、子供や人間を守る使命を本能的に感じているはず。
ヨーロッパでボクシングや格闘技、そしてもちろんK−1がはやらない理由は、知識人と女性の大多数が、たとえスポーツの枠の中であっても、あらゆる形の暴力に反対しているからだ。
女性はこういうスポーツを見に行かないし、それに夢中な男性に知性のなさや単純すぎる野蛮性を感じるから、ほとんどつき合わない。
日本の一部の女性が好きなのは「K−1選手のマッチョな体」だとよく聞くのだが、男性の筋肉や強さに憧れるだけなら理解できる。
ただし、殴り合い自体が格好いいと思うなら、女性のエッセンスに反している気がする。そして、その無神経な見方がちょっと心配になってくる。
先日、K−1選手のレミー・ボンヤスキーにインタビューしたとき、彼が言った。
「私はK−1がちゃんとした格闘技だと思っているし、スポーツの枠の中で紳士でありたい。他の選手も尊敬している。」
これを聞いて、少し安心した。
ちゃんとしたスポーツになるかどうかは、関係者やメディア、選手、観客次第だと思う。ビジネスなどに魂を売らず、「野蛮な本能」に刺激を与えなければ問題ないはずだ。
さて、皆さんはどう思う?K−1は正当化されるべきか、それともやめるべきか。
何よりも私に見えないK−1の魅力があるのなら、教えてくれませんか?