拙ブログの4/8コンテンツ(http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20050408#p1)に対し、フローラン・ダバディー氏がいくつかの返答を先方のブログ内でお寄せくださった。まず、無視ではなくご返答を頂いたことに対し、厚く敬意とお礼を申し上げたい。
http://dabadie.cocolog-nifty.com/blog/main.html
さて、それについてのご返答も必ずさせていただくが、その前に同日付の当ブログにお寄せいただいたコメントにもある程度までご返事させていただきます。部分的には、それがダバ氏のブログへの再返答、再質問にもなっていくかと思う。
『相手を痛めつけることが目的ではなく、技を通じて体を表現するゲームだ。
柔道や空手、合気道などは、気高い哲学と人間を尊敬する『道理』に基づいている」
、、、というのが「オリエンタリズム」というのは相当飛躍した考えでしょう。
格闘技や武道を、ある一定程度見聞したものから言わせて貰うと、これは武道側の喧伝にもよるのですが、「気高い哲学と人間を尊敬する『道理』」が特にこれらにあるというのは、実体に即しているものではないと思います。
それは、前にも書いたように、現代に普及したこれらの武術は、もっと「哲学」「道理」などの精神論(というより神秘主義)を含んでいたを、より非哲学的、言い方を変えれば即物的にした結果、近代武道として成立したという経緯を考えれば疑問符が付くというのが一点。
また、空手、柔道、合気道を学んで得られるスピリチュアル、人格的な練磨や戦う相手への敬意、尊敬の念は、およそ相手と一定のルールをもってあいまみえる競技--コンペティティションの中で、普遍的に練成しえるものではありませんか?
それこそサッカーで死力を尽くしたもの同士が、相手に払う敬意やそこで学ぶ「哲学」は、空手や柔道のものとは異質なのでしょうか?
そして、それはアンディ・フグやレイ・セフォー、ジェロム・レ・バンナが日々体と技を鍛え、死力を尽くして戦い、試合が終わったときには生まれないのでしょうか?
それらの検証なしで無条件に、ア・プリオリに「柔道や空手、合気道などは、気高い哲学と人間を尊敬する『道理』に基づいている」とするのは、まあ旧来のステレオタイプをなぞったものだと思わざるを得ません。
そもそも、ダバ氏が、小生の文に書いたように「気高い哲学と人間を尊敬する『道理』」とは具体的にどういうものなのか説明」をしてくださればよいのである。
それが納得いくもので、ステレオタイプではない深い考察があれば、それがオリエンタリズムであるとの判断、疑いは晴れるであろう。それだけのこと。
おっと初っ端からだいぶ長くなった。もっと短くせねば。
日本文化に尊敬心をまったく持ち合わせていない御仁の薄っぺらな建前
、、、というのは意味不明です。どこからそんなことが言えるのか全然見えませんよー。
これは上で納得してもらえたかな。
満天下に「自分は性差別主義者である」と宣言したといえるダバ氏
、、滅茶苦茶でしょう。論旨が、、、。理解できる人いないのでは?
なにゆえ「無茶苦茶」なのかの説明がないので、回答不能。
ついでに、「性差別主義」については、予定するダバ氏ブログへの直接返答の中でもう少し詳述したいと思う。
きちんとした科学的な資料を出していただきたい。
、、、自分の話の方をまず「科学的」にしてから言うべきかと思う。すまん。
随分と抽象的なお話です。私の科学的資料の要求は、ダバ氏のいう
「男性に野蛮な動物的本能があるとしたら、女性はふつう暴力や殴り合いが嫌いで、子供や人間を守る使命を本能的に感じているはず」
という本能の差についての資料をくれ、と単純に申し上げているものであります。ですから自分のほうを「科学的」にしてから言え、なる抽象的要求にはお応えしかねるし、その必要もないと思う。すまん。
サッカーとK-1は「全く同様に」危険というのはちょっと無理があるでしょう。やはり直接的に攻撃を加える格闘技のほうが危険は危険ですよ。
これは危険の「有」/「無」という区分で、両方とも「危険が存在する」という意味では全く同じだ、という意味です。相対的な比較をいうなら、K-1などのほうがもちろん危険性が高いと思いますよ。(ただし相対性を言うなら、フィールドを11人同士が猛然と走り回るサッカーも・・・国際試合などで勝負がシビアでえげつなくなるなどの環境面も含め−−かなり危険性は高いスポーツになっていると思いますが)
あなたたの文章に対して違和感があるのは、ダバディ氏を揶揄する時に「西欧人の無理解」みたいなスタンスを持ち出す点
ん?基本的には「ダバディー氏の無理解」であり「ダバディー氏のオリエンタリズム」であり、「ダバディー氏の愚論」ですよ勿論。
なぜ、こう読めるのだろう・・・と思ったら、アアこれか。
特に・・
>酷い文章です・・・フローランの文章と同様に
などというのは卑怯でしょう。怒りのあまり我を忘れているのか、普段からこのような個人中傷的な文章をお書きになってるのかは、知りませんが。あなたに必要なのは知識ではなく「矜持」です。
前の人の、これも同様だね
>特定のカテゴリーにある人を十羽一からげにステレオタイプ化したもの
、、、ですよ。確かに。
せっかく” ”で囲んで、該当部分も引用しとるのに気づいてもらえないのか・・・_| ̄|○。
実はですね、この” ”部分はそもそも、ダバ氏自身がお書きになった
女性はふつう暴力や殴り合いが嫌いで、子供や人間を守る使命を本能的に感じているはず(NW誌上では2段目の15-17行目)
なるものの、ロジックを借用したものですよ。というかコピペして、固有名詞などを変えただけだし(笑)。この” ”部分は「ステレオタイプ」「科学的な根拠も無い文章」「特定のカテゴリーを十把一絡げ」にしている、とんでもなく説得力ない文章だと、誰あろう私が認めている。しかし、それはダバ氏の元文章がそうであるからだ、ということでしかありません。それがあるゆえに「酷い文章です・・・フローランの文章と同様に!」となる、とつながっていきます。
これが「個人中傷」であるというのは全く解せません。
一休さんが「屏風のトラを追い出してください」と言ったのは、本気で絵から飛び出てくるのを待ち構えていたわけではなく、「屏風のトラをひっとらえよ」という、将軍さまのロジックと同様の水準までいったん降りた上で、矛盾や非論理性を分かりやすく指摘するものでした。それと同じだ、といえばお分かりになるでしょうか?
仕方ないので、この部分には後からの補足になりますが、注釈を入れておきましょう。
ダバディーの意見に人種・国籍を絡めての反論はフェアじゃないと思うなー。
これは下のコメント欄かな?
ちなみに、前回は引用しませんでしたが「ヨーロッパでボクシングや格闘技、そして勿論K-1が流行らない理由は・・・」と、ダバ氏は自身の論をヨーロッパ全体の風潮に絡めて展開されております。それでも基本的には、ダバ氏個人に帰する、とは上に述べたとおり。
またTBされているhttp://d.hatena.ne.jp/nain/20050408については、同コメント欄にあとで書くべき事を書いておきましょう。
グリフォンさんが
「まず、、このダバ氏が「理解できない」、というK-1を、なぜ人々が愛好するのか。話は簡単で、コンペティティションであるからだ。・・・要は、他のスポーツ・・・サッカーと、なんら変わらない。」
と書いているが、だったら何でグリフォンさんはダバディを知らないほど、あれほど日本中が熱狂していたサッカーを見ないのか。
「格闘技ファン」は、サッカーでも野球でも陸上でもなく、何故「格闘技」を愛するのか?
これは少なくとも私の経験から考えると、男女の仲と同様、偶然や世代など、さまざまなご縁でもって、人々の趣味はいろいろに分かれるものだ、という一般論ですべて説明がつくと思う。少し環境が違ったり、昔の少年サンデーに梶原一騎原作・原田久仁信画で「サッカースーパースター列伝」が連載されていれば熱狂的サッカーファンになった可能性は高い(マジ)
ただ、私がダバディー氏と違うのは、自分が格闘技が好きでサッカーに興味が薄く、他の人がその逆であっても「さもあろう」と考え、サッカーを好きになる人はおかしい、ことに女性は本能的にサッカーなどを好まないはずで、それを好む女性はちょっと心配だ・・・などと思わないという点でしょうか。
あと余談ながら、これは念押しですが、ひょっとしてダバ氏はコメント欄に慣れておらず(そんなことないか?)、そこに残された(私自身の所論に対しての賛否も含めた)第三者のコメントと、小生の発言そのものとを混同されているのではないか、と最新のコンテンツを見ると懸念いたします。
基本的に欄の中同士でも、相互の関係を受けて議論が展開されている以上、明白な物理的荒らしでもない限り消したりはしないつもりですが、小生のブログそのものと、コメント欄に投稿された第三者の発言は、分けて表記していただけるとありがたいです、フローラン・ダバディーさん。
さて、ダバ氏の返答そのものに関しての感想、議論は次回を予定。