午後。
いま「カノッサの屈辱」をフジテレビで放送(午前1時半)
しているな。
ぜんぜん知らなかった。知っていれば最初から告知したのに
爆笑! 故平山郁夫作「2002年の聖おにいさん(3兄弟)」
いや、笑った笑った。いやわらってる場合でもないのだが。
最近、あまり目を通す機会がないのだが、たまたまだいぶ遅れて本日「週刊文春」を読んだところ、亡くなった平山郁夫氏の、早稲田大が現在所蔵している作品についての短い記事があった。
早稲田大は平山氏からある美術品の寄贈を受けたが、その作品を公開するかどうか悩んでいる。
それは平山氏が世界平和への祈りを込めて
釈迦・キリスト・ムハンマド(マホメット)の姿を描いた「三聖人・平和の祈り」。
わははは。
www.hirayama-museum.or.jp
によると
釈迦・キリスト・マホメットの三人を描く絵は昭和50年(1975)にも「新三一図(平和の祈り)」として描かれています(下の図)が、この作品が 21世紀になって新しく描かれたのは、タリバンによるアフガニスタン・バーミアン大石仏の爆破、2001年の9.11同時多発テロと言ったイスラム過激派による凄惨な事件が続発したことと無関係ではありえません。
世界地図を背景にあしらい、雲上に三聖人を立たせることで、世界平和を祈念する思いがより強く表現されているのではないかと思います。両作品とも、中央には釈尊が描かれますが、これは厳しい対立をしがちな一神教どうしを、仏教の寛容さと慈悲の精神で橋渡しできないかと考えているからです。
なにげにゴーマンに、ブッダに一番おいしいところを割り振ってるし。
文春の取材に関して早稲田の関係者は「どういうふうに公開・保存するべきかできるか、ふさわしい方法は何かという検討であって、絵の内容ではない」(大意)といっているが「たしかに大学の中には反対する人もいる」とこたえたとのこと。
故平山氏の弁護をあえてすれば、本人も「専門家に聞いたうえで問題は無いと判断し描いた」といっていたそうだ。イスラームの正統な思想とはいいがたいが、肖像画を許容する見解もたしかに無いではないらしい。
それに
「アラーのほかに神はなく、ムハンマドはその預言者である」
(キリストはそれに先立つ預言者の一人「に、すぎない」)
にせよ、
キリストは「神であり人であり聖霊である」
にせよ
「ブッダは悟りを開いて輪廻の外に解脱した」
にせよ、どれも言っちゃあ悪いが信者が勝手にそう認定しているだけでな。
それ以外の見解だってもちろんある。
「偶像をつくるなどは預言者への冒涜である」というのも一宗教の見解であって、その信者でもない一人の芸術家の創作に干渉するわけにも究極的にはいかなかろう。
こんな拙文も、かつて書いたことがある。
m-dojo.hatenadiary.com
だから究極的には、この絵を平山氏は描いてよかったと思うし、描くべきだったと思う。平和への祈りってのもうそではないだろう。ゆえに公開してほしいとは思う。
に、しても。
ここまで堂々と三つの宗教の開祖が並ぶ姿を描いたこと。
しかもそれの宗教の根本として「私以外の神を信じるな」とか「預言者の似姿を描いてはならない」という教義があっても、それに自身はとらわれなかったこと、
どちらも驚くべきことだ。
こういう作品を、自身の思想と感性、情熱にしたがって描いた一人のアーティストがいた・・・ということを、記録しておきたかった。
別にいいですよね。そういうもんですよね。 たぶん。
あとお一人さま、相席よろしいですか?
孔子とかソクラテスを入れるのも悪かないが、勝手にここにだれかを入れて、勝手に同格を名乗るって手もあるよな。もしくは、この上に勝手に入ってもいい。
もともとイスラム教だって、キリスト教に対しては「一応同じ教典の民だから保護したし、だいぶ寛容だったよね?」と言うことだけど「まあ俺たちも、先輩っすからリスペクトしてっすよ。ただまだ先輩とかはハンパなところもあったっすよね。俺たち、いまや最強で、完全無欠の啓示をもらって真理バリバリっすから!」という上から目線での身内扱いだしな。されたほうが感謝してるかはどうか。まあその当人も「前は古い契約の旧約したけど、うちのアタマが単身ゴルゴダに乗り込んで新約ひっさげて来ましたから」とか言ってるしな。
加上説ってやつだ。
田舎のローカル神を「実はあっちの仏さんが、こっちでは覆面をかぶって垂迹であばれている大物!」とかいって興行を打った島国のプロモーターもいたっけ。
要はこの3人に肩を並べたり、この3人に教えを授けるような絵を描いたり、またはそういう教義をつくることも可能なんだよな、という話でした。
それを阻止することもできないだろうし、実際既にやっているところはやっているし。
ルールの中でのあれこれの調整と、ルール自体の変更のこと
http://www.j-cast.com/2009/12/13055758.html
■オフィス街「路上弁当」規制強化 周辺飲食店が安売りに「待った」
オフィスが集中する東京都中央区で弁当販売の取り締まりが強化されることになった。港区や千代田区も厳しくしている。
中央区は2010年1月から路上での弁当販売に対し監視指導を強化する。規制対象になるのは、ワゴンや机に弁当を並べて販売している「行商」。東京都の条例で、行商は「人力により移行しながら販売すること」と定めている
(略)
取り締まりを厳しくしても、弁当の行商が一向に減らないのは需要があるからだ。不景気で懐寂しいサラリーマンは、安い弁当に殺到する。2010年1月から取り締まりを強化する中央区の食品衛生係の担当者も、
「行商では300円台から弁当を売っています。指導にいくと、お客さんに『余計なことをするな』と怒られたこともあります」
といい、なかなか規制は難しそうだ。
これが地元に根付くお店を保護する適切な措置、なのか会社員の選択をうばう悪法、なのか・・・はともかく、逆に「オフィス街行商自由条例」のようなものをつくろう、という動きは無いんだろうか。行商が交通その他の妨げとなるからだろうか。
まあとにかく、以前ビラの事件のときも「政治ビラは自由に配れるというふうに、法律のほうを変える手もある」ってかいたけど、それと同じように(同じにするのもあれだが)1か月前という通常の基準より、遅い申し込みで実現したという中国の習近平と天皇の会見というのも、内閣が責任をもってルールを変えるというならそれで別にかまわない話ではある。(これは国事行為とはいえないらしいけど)
あとはそういう変更をした内閣および与党を、どう選挙民が評価するかなのだから。
わたしはつい「平成の紫衣事件か?」とかそういって面白がってしまうのだが。
たとえば世論調査でどれぐらい影響をしていくか。
最近の支持率調査、さがってはいるが逆にあれぐらいの低下ですみ、なお過半数が支持するというのは鳩山首相の「テフロン性」の証明に逆になっているような気がする。そこに今回の話が来て、どれだけのほうが批判的になるのか少しく興味があるし、たとえば世論の動向に敏感なレンホウ議員や原口一博議員がどう見解を示すかにも興味はある。
あと今回、「羽毛田信吾宮内庁長官は反対するならその前に辞職するべきだ」と小沢一郎は会見でいったららしいけど、逆に言うと反対してもいいので、その後に「羽毛田宮内庁長官を内閣が解任すればいい」と思いました。そのほうがすっきりする。小沢が内閣の外の「党幹事長」であるような状態で、言っていいのかはあるけど。
むしろですね、天皇家に何かを無理にでも要請することがあるなら、
御神体を乗せたみこしをかついで強訴ですよ。それが伝統にのっとったやり方だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E7%A5%9E%E6%9C%A8