日本映画界の伝説の巨匠、白沢明監督が、新作映画の抗争を発表した。
唯我独尊の芸術至上主義者として知られる監督の、次回作は「ムハンマド伝」だった。
記者「これはやはり・・・・先行作「ザ・メッセージ」のように、影やアングル、周りの反応でムハンマドを表現するのでしょうか?」
監督は、傲慢に答えた。
「俺をそのへんの、三流映画屋と一緒にするなッ!ムハンマドには、もちろん大物俳優を起用する。妻との愛や性、苦脳、悩みや傲慢さも描ききってみせるさ。カーバで、多神教の像を次々と打ち壊す、侵略者の顔を見せるところもこの映画のクライマックスだ」
記者「しかし・・・ムハンマドの姿を描くことはタブーです。」
監督「そりゃ、信者の中ではそうだろうよ。
俺はたくさんの資料を読んだ。コーランも、アラビア語から徹底的に学んださ。
しかしながら俺は(彼に平安あれ!)ムハンマドを、一人の偉大な精神を持った男だと尊敬し、愛しているが、ムスリムじゃあない。おれは彼を、一人の人間として描きたいんだ。
だから、ムスリムにはこれを見てくれ、見ろ、制作費を出せとは言わない。
その代わり、俺に対してやめろとか描くなとかも言ってほしくない。
この偉大な『人間』の生涯に興味がある人だけが、俺の映画に協力してくれ、見てくれ。」
○○○「 」
最後の登場人物と、台詞は敢えて空欄にした。何を入れるべきかは・・・
今回の問題に関しては、「爆弾」をターバンに模して描くということで、「単なる絵を描くことだけではなく、それが侮辱的なのが問題なのだ」という指摘もある。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20060207/1139302495
「善意で肯定的に描いた場合でも容認はできないが、そうした例は過去にもあった。その都度、対話を通して私たちの考えを主張し、平和的にお互いの理解に達することができた」
実際にそうだろうし、だから学研漫画も1970-80年代にふつうに描いていたムハンマドの画を変更したのだろう。しかしそれは「現実の摩擦回避」であるが、本来的にはやはり、解決不可能であるのでは?との疑念はのこる。
上のイスラム法学者のコメントも「善意で肯定的に描いた場合でも容認はできない」以上、白沢明監督の新作映画も認めることはないだろう。
この場合、カソリックが「禁書」(【補足】下コメント欄によるとカソリックに「禁書」制度はもう無いとのこと。)にするように「俺は見ないぞ!認めないぞ!」で終わるなら、これもまた知恵なのだが。
「俺は見ないぞ」と「お前ら見るな(作るな)」の間に橋は架かるのか?
ちょっと関連
■[時事][宗教]靖国参拝−−平和を呼ぶ「サイキック・ウォーズ」?
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20050813#p3
「自由の敵にも自由を」vs「闘う民主主義」 その帰結
「ホロコースト否定論の表現・言論はヨーロッパも認めないじゃないか。それと同じだ」という新たな?論点に関しては、飛び火したフランスはもちろん矛盾となるのだが、少なくとも今回の本家本元デンマークでは、やや違うそうです。これはちょっと驚いた。
http://d.hatena.ne.jp/kiyonobumie/20060205
・・・ユランズ・ポステン紙も、このような自主検閲の傾向を感じ取っていた。そしてそれを、デンマーク民主主義における表現の自由の危機だと受け止めた。ちなみにデンマークと言えば、表現の自由にかけてはヨーロッパのなかでも最も「進んだ」国のひとつであって、ヨーロッパで唯一、ネオナチのラジオ番組を流すことさえ認めている・・・
これは「自由の敵にも自由を与える」という点で、ありうる帰結では確かにある。
この本場?ドイツは、もちろん正反対の「闘う民主主義」なので、ナチス表現は敬礼にいたるまでご法度なのだが「自由と民主主義を否定する体制という点では同じだ」つうことで50年代だか60年代に「共産党」の結社の自由を否定し、解散させている。
(その後に活動していたのは、中核部分の主張を自粛した残党)
これもまあ、理屈じゃもっともだろうが、いいのか悪いのか、議論が分かれる。