元の騒動を全然追っていないけど…てかアエスパって誰だろう
署名簿を持って窓口に行きましたが、
— 磨童まさを@デスドル創設者 (@masawo_deathdol) December 22, 2025
NHKに受取拒否されました。#aespaの紅白出場停止を求めます pic.twitter.com/yaJJ1fvFjV
NHK→受取拒否
— DEATHDOL NOTE (@DEATHDOL_NOTE) December 22, 2025
放送倫理番組向上機構→受取拒否
(撮影 : 千代田放送会館1F)#aespaの紅白出場停止を求めます https://t.co/wRpcxnmv5C pic.twitter.com/lslDAnfXGP
署名を受け取るか受け取らないかは、相手の自由。これはどんな場合であっても、一般原則として押さえておきたい。

そこで思い出す、崇徳上皇の写経。今回の署名もそうしたら
『保元物語』では、崇徳院は讃岐国で軟禁生活を送る間仏教に傾倒し極楽往生を願い、写経に専念する生活を送っていました。
戦死者の供養と反省の証にと完成した写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出しましたが、弟である後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、写本を送り返します。
これに激しい怒りを覚えた崇徳院は、舌を噛み切り写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込みました。度重なる不当な扱いに対する怨念により、崩御されたのちは天狗の姿となって保元の乱にて自分を追い詰めた人物を祟り、京にて数々の災厄を引き起こしたとされております。
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「後生菩提のため、五部大乗経を墨で形のの通り書き写したが、ホラ貝や鉦の音も聞こえない遠国に捨て置く事は不憫です。御許しがあれば、八幡の辺りにでも、鳥羽か、そうでなければ長谷の辺りにでも置いて下さい。都の方に送り置きます」と申させて、御書の奥にお歌を一首書かれた。l.;,
浜千鳥 跡は都へ通へ共 身は松山に ねをのみぞ鳴く (私の書いた筆の跡は都へ通っていくが この身は松島でただ、鳴く ばかりです)
御室から関白殿へ伝えられた。急いで関白殿は、良きように御取りはからい下さるよう、申し上げたが、主上(後白河天皇)はお気持ちを解かれることはなかった。その上、例の信西が、口を挟んだのでついに、願いは叶わなかった。このいきさつを新院が聞かれて「悔しいことであることよ。我が朝に限らず、天竺震旦にも、新羅百済にも、位を争い、国を論じて、伯父甥が合戦をなし、兄弟が戦をした。前世の業が現れるから、長幼の序ではなく、伯父も負け、兄も負ける。その事を悔い、反省して、手を合わせ、膝をかがめて嘆くときは、許すのが通例だ。今は後生菩提の為に書いた御経の置き所をすら許さないのは、後生までの敵となる。我、願わくは五部大乗経の大善根(果報を生む良い業)を、三悪道(地獄、餓鬼、畜生の各道)になげうって、日本の大悪魔となろう」と誓い給わって、舌の先を噛み切って、その地を以て、お経の奥に此の御誓状をお書きになった。
その後は御髪も剃らず、御爪も切らせ給わらないで、生きながら天狗のお姿にならせ給いて、中二年の後の、平治元年十二月九日夜、丑の刻に右衛門督信頼の左馬頭義朝を味方に引き入れ、院の御所三条殿へ夜討ち。火を懸けて、少納言入道信西を滅ぼし、院(後白河上皇)も内(二条天皇)をも拘束し、大内に立て籠もって、位階を授けたり、国の諸官の任命などを行った。少納言入道は、山の奥に埋もれていたのを掘り返し、頸を切り取り、大路を引き回し、獄門に懸けた。保元の乱で多くの人の頸を切り、宇治の左府の死骸を掘り起こしたその報いと思えた。信頼卿は戦に負けて、六条河原で斬られた。義朝方の負けで、都を落ち、尾張国野間と言うところで、長田四郎忠致のために討たれた。一年前の保元の乱で乙若が要った言葉と少しも違わなかった。