開催前に紹介した、この話題。
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「鬼の木村」のシンポ開催 名柔道家の生涯たどる
2024/10/19
拓大で開催された柔道家、木村政彦の生涯をたどるシンポジウム=19日、東京都文京区
「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とうたわれた名柔道家の木村政彦(1917~93年)の生涯をたどるシンポジウムが19日、母校の拓大(東京都文京区)で開催された。戦前から戦後にかけて圧倒的な強さで日本一に輝き「鬼の木村」とも呼ばれた。プロレスに転身し、力道山との一戦は語り草だ。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を著した作家の増田俊也さんが基調講演で登壇。戦後、木村がプロとして海外を回ったことに触れ「強さを見せつけ、まいたその種が(成長し)海外から返ってきたと思う」と話した。
www.takushoku-u.ac.jp
2024年10月19日(土曜日)13時~16時、拓殖大学文京キャンパス後藤新平・新渡戸稲造記念講堂(E101教室)にて、木村政彦生誕100年記念シンポジウムが開催されました。前半の講演会では、岡戸巧理事長から「師・木村政彦と拓大柔道」、木村政彦生誕百年記念実行委員会の秋本勝則委員長から「木村政彦生誕百年記念事業について」、また基調講演として作家の増田俊也さんから「木村政彦先生の生涯」の講演がありました。後半のパネルディスカッションでは、「木村柔道の真髄を語る」をテーマに、増田俊也さんを囲んで、本学柔道部関係者の正木照夫、佐藤伸一郎、一戸隆男、秋本勝則各氏による熱気を帯びた討論が、和気藹々のうちに行われました…
この内容がどこかにUPされる感じでもなさそうなので、ほんのちょっとだけ、メモ的に箇条書きしたい。
ただ、かなり急いで、しかもあまり質の良くない筆記容疑での走り書きだったので、ちょっと再現度に難があることを最初に断っておきたい。
行ってすぐにこういうのは書くべきなんだよね、走り書きと記憶を融合するからこそ再現度が高くなる…
それでも一応、無いよりマシの精神で。
増田俊也氏の基調講演から、興味のむくまま断片メモ(※別の人の発言とかちょっとまじってるかも)
・増田俊也基調講演から「なぜ力道山を…」その漫画化「KIMURA」創作秘話など
・KIMURAを連載させた週刊大衆にはこちらから しつこくアプローチした。当時の 編集長 は元日本拳法部のキャプテンだった。 そういう 縁で連載が実現したかもしれない.
・連載時から 「原田先生はもうご年齢で、ちょっと線が歪んでいる」、みたいな懸念を言う人もいたが やはり 原田先生 でないと、と思った。
・「なぜ力道山を~」執筆時には、木村政彦対力道山の試合映像を入手して、大きなスクリーンのある喫茶店で岩垂先生と一緒に見た。だが岩垂先生は、何回も試合映像を巻き戻して、大変怒っていた。
・木村が亡くなってから 本当に数ヶ月の時に UFC があった 。
・その結果 動画 がいくつも見つかった。プロ柔道の時の動画もあった
・東海大は牛島辰彦の人脈 人。 牛島 が作った組織に学ぶことが多い。講堂学舎などがなくなって 今後 そういう場を作る必要がある。
・戦後はアサヒグラフも表紙でプロ柔道を扱ったりしたことがある。結構人気だった。
・木村政彦 がエリオグレイシーを破る前、 日本柔道がエリオに敗れた時新聞の見出しは「失神した有色人種」 だった。 それぐらい 馬鹿にされた中で 木村は戦って買った。
・ 連載を終えた後 、ゴン格 編集長が副知事 だった 猪瀬直樹のところに(アポなしで?)行って、「私( 増田)と拳を交える写真を撮らせて」、とか無茶振りした 。
・それでも とにかく、 元は猪瀬直樹の記事(ニュースの考古学「枯れない殺意」)に 憤激して生まれた ノンフィクションなのに猪瀬さんは大変気遣ってくれた、 評価してくれた。そういう気遣いの人だと思う。
・木村政彦 先生も ボーダーを作らない人だと思う。 弟子にサンボやりなさいと言うぐらいなんだから。
・ でも私など一人では 木村政彦についた悪評を払拭できない。
客席の元弟子たちもまじってわいわいシンポ雑談
本当は このシンポジウムに鈴木宗男が来て挨拶するはずだったが 衆院解散でメッセージを寄せるにとどまった。
<正木照夫 というひとが、木村の語りべとしては群を抜いて面白かった>
木村先生は 天覧試合で優勝して天皇陛下からもらった小刀で、漬物を平気で切ってた 。それを見ていた私に「 これいるか?」…もらえません… 。それぐらい過去の栄光にこだわらなかった。
その後 柔道会に復帰しても、やはり 会いたくない えらい先生がいたようで。
「 会場に●●さんおるか?」「はいいらっしゃいます」「そうか、お前、俺の前を歩いてずっと 顔を隠せ」だからずっと私は蟹歩きです。
まだ柔道界、講道館から正式に「破門」が解かれてない頃、同姓同名の柔道指導者が別にいて、その人に指導をしてもらおうと呼んだつもりが間違って鬼の木村を呼んでしまい、現場でその勘違いがわかったが「まあいいや」と木村流の一本背負いを指導したとか。
「木村政彦は、拓大の部員に腕立て1000回を日課とさせた」をめぐって
「いや そうそう 千回なんてできるもんじゃないですよ あれはね・・・」と、 当時の あれこれの”工夫”を語る人と、「 いや 少しずつ頑張ったら、何とかできるようになったんですよ!」 という人の、主張というか思い出話が微妙に対立してた(笑)
できた派がウンノトミオ氏、いやちょっと、が正木照夫氏だったような…
「真意は何回でもいいからきちんとやれ、ということだったと思う」
「アンザイ先生は腕立ての”神様”(ズルするという意味で(笑))」
西良典の話も出てたな 極真空手を学びたいと柔道部を辞めて、でもその後柔道部に戻ってくる、なんて型破りなことが許されたのも木村政彦の精神に近いとかなんとか。
稽古の時に部員が叩かれたり 大声を出されたりするようなこともない 。奥で黙って じーっと見てて、ある時に「はい 集合」 と声をかけて非常に 分かりやすく 技の説明をしてくれた
木村先生は 酔っ払って 2階からの階段から下までガラガラと転げ落ちたんだけど、周りが蒼白になる中で全然 ニコニコして、怪我 ひとつ なかった。
最期に配布資料にあった、一枚の色紙をめぐる物語を。82期卒業生の、Oさんの回想。
最後に推薦するんだけど、上に書いたように、シンポジウム登壇者の中でも 正木照夫 という方が木村政彦のエピソードを数多く知ってて、それを面白く語れる人です。彼のみならず、木村政彦の弟子=拓殖大学、代表KAMINOGE、Dropkick、ゴン格……どこでも、話を俺のいい加減な殴り書きメモじゃなく、じっくりと「記録」として残してくれないかなあ、と。