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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「遊牧民が戦争に強い」理由の一つは「ヤバい時はさっさと逃げる。しかも逃げに『負け』の意識がないから決断が速い」


当たり前だけど農業は土地が無ければ出来ないし、個人で行うには限界があるので共同体の協力が必要となる、個人やその家族レベルなら共同体を変えて生きることは可能だろうけど、共同体全体をまとめて生活基盤を捨てさせて面倒を見るのは無理


しかも銀英伝のように未開惑星へ開拓が出来る世界はともかく、現実は誰のものでもない土地なんて存在してないわけで…


因習クソ田舎村をはじめ、現代人が産まれた土地に縛られる人間を平気で馬鹿に出来るのはどこに行っても金さえ払えば食い物を手に入れる事が出来るからであって、その社会の仕組みを支えてるものが根底から破壊されたときどうなるかは先人たちが既に経験している




ここまではみんな大好き銀英伝話だが、そこからの反応

モンゴル人は “ 元” を建てて、カラコルムに首都をつくった。

モンゴルの大征服によって、世界は別の段階へ前進した。

「おびただしい屍が残されたが世界は一つとなった」と、もし、当時の中央アジアの隊商の長が叫んだとしても間違いではなかろう。

しかし、草原を出て、街に住んだモンゴル人は弱くなる。
元が滅亡するとモンゴル人は草原に帰った。
“ 北帰 ” という。

言いわすれるところだった。

カラコルムは、元の滅亡後、蒸発したかのようにもとの草原にもどったと、この章は終わる。
note.com


司馬遼太郎は、この「北帰」について、別の所でも書いてる。
そもそも中国の史家も王朝が変わって明になった以上「元の滅亡」と書きたかったんだろうが、前の王朝は「北に帰った」と書かざるを得なかった…というか実際に「北元」という国家が生まれ、長く生き永らえた。

北元(ほくげん、拼音:Běiyuán)は、1368年に、元(大元)の第14代ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の大元ウルス(モンゴル帝国の皇帝直轄政権)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん、拼音:dádá)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称も用いられる。柯劭忞の『新元史』は北元(1388年に終了)を中国の正統王朝と見なしている。

定義
元は、1368年に大都を放棄し、モンゴル高原を中心に中国の漢民族地域より北方の一帯を支配する政権となった。この政権をそれまでの中国を支配した元と区別して「北元」とする[1]。ただし、北元の当事者たちは、自分らの政権は依然として「元(自称は大元)」であると自覚しており、民族の自称は「モンゴル国」であった[2]。

中国統一王朝が滅亡に際して避難し地域再興した先例としては東晋南宋などがあるが、「北元」はこれらの王朝と異なり中国主要部を完全に放棄したため中国史の主要な記載から姿を消す。一方で、統一王朝瓦解に際して元の皇帝と皇太子がそのまま北方に避難して宮廷が温存されたという点では、この「北元」は中国史として唯一の例である。

ja.wikipedia.org


しかし、実際に国家間戦争…そこまでいかないや、集落と集落、小集団と小集団の戦争とかの方がもっとやっかいだ。

農村定住民の民に、それこそヤン・ウェンリーでもラインハルトでもいいが、そういうレベルの軍事天才が…
最近、こんなまとめバズったな
togetter.com


そんな天才が生まれて遊牧集団を圧倒しても「こりゃかなわん、尻に帆掛けて逃げろ!」と、テント畳んで逃げ出す。

ウェリントンワーテルロー前夜、ナポレオンから全力で逃げる

しかし経済的にも人員的にも組織的にもダメージは少ない。
そしてまた「機会があれば襲撃すっか……」と戦闘姿勢は解かずに牙をとぐ。
こんなのいったん勝ったほうも休まらんわ。カネと時間をかけて万里の長城も築こうというもの。



というか、そもそも「負けたという意識が希薄なら、そもそも負けなのか」ということでもある。
負けという意識がなければ撤退も早かったが、負けを重要視するからこそ撤退できない、という矛盾……


www.youtube.com


この続き。たぶん、異論が出るならここからだと思った(ホント)のだが、やはり…

以下コピぺ

遊牧民
@Historian_nomad
·
1時間

また、これは遊牧国家について調べていると割と出るのですが、遊牧集団の「敗北による移動」はそんなに簡単にかつ秩序だってできるものではありません
匈奴の分裂や突厥可汗国やウイグル可汗国の崩壊時にも大量の亡命集団が発生していますが、彼らは漢や唐への臣従により保護を求めたわけです


近くはハルハの清朝への臣従も同じくで、「敗走する」ということは少なくとも当面の敵手以外の誰かしらのもとへ逃げ込むことであり、それができるか否かは相手次第です(ウイグル亡命集団が必ずしも受け入れられず消えていったことは山田信夫の研究があります)


逆に台頭前夜のチンギスが他集団との抗争に際して金の辺界界壕に避難できたのはそれ以前に金との間で一定の関係を取り結んでいたからだとの所説が近年ありますが、これは漢や唐に臣従して北方に安置された匈奴突厥・ソグドの諸集団と似た情勢と見なすべきでしょう


またそもそも、皆さんあまり注意されておられないのですが、チンギス台頭前夜のモンゴル高原諸集団を見ていただければわかる通り、草原各地はそれぞれの集団が割拠する地域であり、「どこかへ逃げる」ということは「他所の地域に入り込む」ということになり、それは必然衝突を生みます


この他にもフン族の登場やバクトリア王国の興亡、あるいはより大規模なものとしてのアラブ・イスラーム国家の成立と拡大や中央アジアの「テュルク化」やなど、遊牧集団の移動による大変動は史上枚挙に暇がありません
「負けたら逃げれば良い―どこに?」ということを考え無い断定は軽率と言えるでしょう


遊牧民にとって「逃げる」という行動に対するコストが定住民より低いことは確かです
ですがそれは決して軽視できるものではありません
逃げたなら逃げた先で先住者(遊牧集団でも定住民でもありうる)との生存闘争に勝たねばなりません(清朝にもそうした状況に陥った集団との交渉記録があります


遊牧民であれ、暮らしていくには家畜群とそれを再生産する牧地と水が必要です
逃げ続けて生きていくことはできません
だから幼少期のチンギスは艱難辛苦を味わいながらヘンテイ山中の牧地で果物や野草、魚まで取りながら雌伏していたわけです


敗走してなお戦闘ができるだけの戦力とそれでどうにかできそうな相手なら――そういう事例もままありましたが――集団でまとまったまま移動できれば移動先に定着もできたでしょうが、必ずしもそうではないことも事実です
あまりそのあたりを軽視して単純化するのは正確な理解とは少し離れると思います


まぁ乱世の時期になるとよそでやられて逃げ込んできました!とか記録に残るんですけどね、清朝がモンゴル諸集団取り込んでいく過程って結構な割合がそうですし(リンダン・ハーンの活動
ジューンガルや青海から早く清朝に投降した連中もそういう流れではありますが(あいつらも最初は略奪したりしてる


モンゴルの拡大過程なんかはそれがかなり詳細に残っているパターンではありますが、「逃げればいい」ならなんで下って編入されてるんですかね……?という観点からも話をすることはできます(もちろんそんな単純な話で物事が動いていませんが、単純化するならこういういい方もできるということです


こうしてみると「負けたら逃げればいい」、どの集団のどの程度の範囲までを前提にしてます?になってまいりますね
もちろんそういう感じの動きをした人らもいますが(そこまでやれと誰が言ったよなのが逃げ上手のジャラールッディーン(流行りにのるな


この話はそれこそ楊海英『モンゴル帝国』で楊先生ご自身がウズベクやカザフでコンギラト集団の方々にお会いされたエピソードなどがわかりやすいですね(いや、コンギラト実は中央アジアでは結構長いこと超有力集団なんですが(ヒヴァ・ハン国ではチンギス裔にとってかわるし
Af
@Sz73B
·
3時間

五胡期に苻堅を出した氐族の子孫が中原から姿を消した後、数百年経ってからエーヤワディー平原に入ってビルマ族あるいはその一部になったという伝承、どこまで真実味があるんでしょうね。
遊牧民
@Historian_nomad
·
3時間

えっそんな説というか伝承があるんですか?!初耳ですがすごいですね…(氐と直結するかはともかく青海から四川西部を経てビルマないし雲南あたりに移動する可能性自体は唐代の吐蕃南詔の動きを見るとありえなくはなさそうですが…

草原のほか
「水辺」を確保しなければならない(そこには優先権も先住権もある)ので、遊牧民もそれほど自由には動けない、という話を、以前このアカウント界隈で聞いたことがある。ただ、それほど上の二つは排中律ではないとも読んで感じる。
ぶっちゃけ、逃げた先の「保護」を求めるといっても、自分のほうが強ければ「侵入」になっちゃうというのがゲルマンや、あるいは劉備のもとに「逃げた」呂布とか(笑)、近代でも八路軍の長征はある意味それだったし