何度か紹介した「興亡の世界史」モンゴル編
著者は杉山正明。
この第3章で「モンゴルは強かったか」という身も蓋もない小見出しがある。
以下引用
チンギスとモンゴルを語る時、とにかくやたらに強かったというイメージがある。 だが本当にそうか。
モンゴル騎馬軍団と言っても所詮は人間である。 耐久力はあるがスピードは出ない小型のモンゴル馬に乗り、確かによく飛ぶ短い弓で短い矢を射る。……要するに馬と弓矢の軍団にすぎなかった。 破壊力など、実はたかが知れている。 機関銃も鉄砲もない。 モンゴルを未曾有の強大な暴力集団であるかのように言うのは間違っている。
東西の記録で共通して語られることがある。 それは、モンゴル遊牧民族達は、極めて純朴にして勇敢、命令・規律によく従ったというのである。 彼らが淳良・忠実であったことは、遊牧民と言うと極端な蔑称が目につく漢文史料でも口をそろえて述べている。
(長いので箇条書きに)
・ 当時のモンゴルのライバル金、宋、西夏、中央アジアイスラーム地域、ロシアやヨーロッパ…においても戦場での離脱や、日和見、裏切り、勝った後でも分配を巡ってトラブルになり、勝ったほうが弱体化することもしばしば。そんなユーラシアの中でモンゴル軍は実によく統制され組織化された軍隊だった。
・それは民族性や伝統というよりチンギスカン(※同書で、杉山氏は呼び方についての考察もしてる)がピラミッド式の国家体制、軍事組織を精密に構築したからだと言える。
・「ともに富貴を享ける」を合言葉に多人種多言語多文化の首脳部が、「モンゴル」と言う新しい共同体に再編成され、出征にかかる費用はほとんどが自弁だった
・あと強いのは周到すぎるほど周到に準備し、敵について徹底した調査と調略を行ったから。 大抵は2年以上準備を費やした 。
・その証拠にチンギスの西征で、ホラズムシャー王国はあれほどスピーディーに崩壊させたのにアム川を越えて現在のアフガニスタンの領域に踏み込むとさっぱり上手くいかなくなり、老チンギスカンは1222年アフガンから撤退する。
・ただ見事なのは極めてゆっくり慎重に退却し獲得した都市や領域は決して失わずに撤退していった。それが逆に見事だと言える
・そもそもモンゴルはチンギスカンの高原統一の頃から基本的に戦わない軍隊だった。モンゴル内部では敵方の人間や集団を吸収したり仲間に引き入れたりする時は「イルとなる」と表現する。これを「敵を征服した」と訳すのは間違いだ。一旦味方になれば同じイル、あるいはウルス として扱われる。
・だからそもそも何をもって「モンゴル」として扱うか?に注意が必要
・ちなみにモンゴルの「ロシア・東欧遠征」と呼ばれるが、そもそもその地域が本当に目的だったのかは疑問である。モンゴルの第一の目標はおそらくキプチャク草原とよばれる広大なステップの制圧で、それは遊牧民として当然。客観的にも、可能なのはハンガリー侵攻がせいぜいというところだろう。
・そもそもロシア人の歴史家は愛国主義がかなり激しく、概ねロシアのことだけ見つめがちで、あまり他と比較しない
・1241年にモンゴルと、ポーランド・ドイツ連合軍が大戦争を行い、 双方に大きな損害を生んだ「レグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)」があった…としばしば記述される。だがそもそもこの戦いは、信憑性が非常に疑わしい。同時代史料にはほとんど出てこないのに15世紀になって突然大きく語られ出す。
それ自体が不自然だし、 そもそも当時のポーランドやドイツは全く統一を欠き、それほどの兵力を動員できるはずがないのである。
・ロシアにおいてアレクサンドル・ネフスキーが英雄扱いされるのもそれに似た面がある。
規律、軍律か。漫画「乙女戦争」では、フス戦争で宗教的な団結心の強かったフス派が、伝説の傭兵隊長ヤン・ジジュカのもとに統制された闘いを見せ、ジジュカは「軍律の父」と呼ばれた、という記述がある。徳川家康も「戦場で役に立つのは豪傑でなく律義者よ」と常に言うてたとか。
モンゴル人が規律に従い真面目だから強かった、というのはそうなのかもな。
当時、どれぐらい戦場で集団戦、組織戦があったか、という、元寇研究でも有名な問題になってくるかもしれない。