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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

BS「英雄たちの選択」、本日は謎多い「豊臣秀次切腹」を

太閤狂乱?「秀次事件」〜捜査会議 豊臣家“滅亡”への出発点〜

豊臣秀吉の跡を継いで関白となった豊臣秀次。突然秀吉の怒りを買って切腹する。豊臣家滅亡の出発点となった事件を最新研究によって見直す。秀吉は切腹を命じていなかった!

豊臣秀吉が後継者として関白を継がせた豊臣秀次。突然秀吉の怒りを買って切腹する。理由は謀反とされてきたが、最新の研究では秀吉は秀次に謹慎を命じただけで切腹は命じていない。ではなぜ切腹に至ったのか?なぜ謀反をたくらんだとされたのか?秀次に死なれた豊臣政権の混乱とは?その混乱を収めるべく秀吉が選んだ最悪の解決策とは?豊臣家滅亡への出発点となった秀次切腹事件の真相に迫る。浮かび上がるのは権力の深い闇だ!

www.nhk.jp

※注意! NHKの編成は現在とちくるっていて、同じ時間に「英雄たちの選択」別の回をBS2局で同時放送してます!!注意を

これ、最近戦国時代のホットな論争のひとつ…要は「豊臣秀吉は本当は切腹を命じていないが、豊臣秀次のほうが誤解、絶望、あるいは抗議の意味で(命令ないのに勝手に)切腹した(その後の家族の大量処刑も「勝手に切腹しおった罪」ともいうべきもの)」という説……おそらく、ウィキペディアにはあるな、歴史論争・異説大好きだもの。
ほら、あった。

粛清の理由
慶長年間に成立した太田牛一の『太閤さま軍記のうち』は、事件の全貌を最初に描いた作品であったので後世に強い影響を与え、最初の“通説”を形成する上での底本となった。この軍記は非常に曖昧な謀反の風聞を粛清の口実としながらも、秀次がこのような憂き目にあったのはその暴虐な行いに原因があったという、「因果歴然の天道思想」[93]に則って事件を描くことで、むしろ天然自然の道理である天道を説くことに重点を置いたところに特徴があるが、これでは秀次の滅亡を勝者の論理で正当化したのと変わらない。この軍記における暴虐行為の描写は、江戸時代の『絵本太閤記』になるとさらに話に尾鰭が付けられ、“殺生関白”という言葉の説明のために悪行はエスカレートして加筆されて、その後も長期に渡って秀次暴君論がまかり通る原因となったのである[94]。謀反説はその後の他書においては讒言説へと発展するわけであるが、完全には無くならず、殺生関白の悪名はほぼそのまま残った。一方で、『太閤さま軍記のうち』は「天道の恐ろしき次第なり」で片付けてしまったので、結局のところ何も解明されず、どのような理由によって粛清されたのかという真相の部分は曖昧なままとされてきた。よって現在でも断片的な説明となるいくつかの仮説が存在するのみである。

謀反説とその否定
謀反説は当時から世間では懐疑的に見られていた。『言経卿記』の記述によれば(文禄4年)7月8日「関白殿ト太閤ト去三日ヨリ不和也、此間種々雑説有之、今日殿下伏見御出也」、13日「昨日殿下禅定於高野山御腹被云々、言語道断也、御謀反必定由風聞也」[95]とあり、山科言経は謀反は単なる噂にすぎないのにそれで切腹とは言語道断だと怒っていて、「不可説」と説明できない事態の展開に憤慨していた[96]。『御湯殿上日記』にも、7月8日、「今朝関白殿へ太閤より御使いありて。謀反とやらんの沙汰御入候て、太閤機嫌悪く御断り候まてとて、関白殿高野へ尾登りのよし申」、7月16日「関白殿昨日十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申。無実ゆえかくの事候由申すなり」[97]と書かれ、秀次は謀反の疑いで高野山に入ったが、無実であったので切腹になったのであろうと端的に説明する。

『川角太閤記』では「御謀反は毛頭おぼしめし寄りなき事、後々、只今までも御座なく候と、承り候。太閤様御分別には、御存命の時さへ、か様に乱りに御行おてだての義候は、御他界後は、義理五常も御そむきなさるべきこと必定と、おぼしめされ候故、半分も大きりも、右の様子は、御りんきと相聞こえ申し候事」として、冤罪であったと断言しつつも、秀次の素行の悪さを憂いて将来の禍根を断ったのであろうと秀吉の意思を説明する[98]。『当代記』では「関白秀次太閤江頃日御謀反の企露之由あって、七月八日関白聚楽第退出、即出家於高野山、同十五日腹を切御、秀次若君二人、一二歳の孩児、并近習女房卅餘輩、渡洛中切捨らる、誠は秀次逆心之儀虚言と云へ共、行跡不穏便飢故、治部少依讒言如此、」と、謀反を明確に否定しつつも、それを石田三成讒言説へと展開している[98]。

『太閤さま軍記のうち』では木村常陸介と粟野木工頭が「陰謀をさしはさみ」と秀次を唆したというものの、何れの話においても漏れ聞こえてきたという謀反の風聞そのものについて少しも具体的ではなく、鹿狩夜興で武装していたことが野心の表れと咎められたというぐらいで、謀反の実体を書いた物はなかった。それどころか多くの書物では疑われた謀反はなかったと否定されたのである。

秀次の罪状

豊臣秀次所用の当世具足の朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足。胸板などに丸に豊の字を切り透かした金銅板をつける。(サントリー美術館蔵)。
そもそも本当に謀反を起こしたのであれば切腹は許されず、斬首や磔などもっと重い刑罰が科されることが常識であった。よって秀次は謀反によって死を賜ったわけではないと解釈するのは自然で、宮本義己は1987年から翌年にかけて『国史学』と『國學院雑誌』上で、前述の『御湯殿上日記』7月16日の記述「御腹切らせられ候よし申。むしち(無実)ゆえかくの事候由申すなり」を根拠にして、謀反では無罪になったから切腹になったのであり、謀反の疑いが晴れなければ磔になったのではないかと主張した[99][45]。この解釈に小和田哲男は(2002年頃)賛同したが[100]、その後、宮本本人が自説の文法解釈上の誤りを認めて、むしち(無実=古語で「誠意がない」の意)、すなわち不誠実な対応を咎められた故の自刃であったという新説を2010年に提起している[101]。なお宮本は秀次失脚の原因として、後陽成天皇の病の際に、その主治医をしていた曲直瀬玄朔を自宅によびよせた一件が、天皇診脈を怠ることになり、秀次には秦宗巴という侍医がすでに存在していただけに関白の地位の乱用を問われる越権行為と判断され失脚、切腹につながったのではないかと指摘して、いわゆる「天脈拝診怠業事件」を主張している[99]。

ja.wikipedia.org

ウィキペディアでは、引用後もまだ議論が続いています


大河ドラマ真田丸」でもたしか、「太閤は切腹を命じてはいない」説で描かれていたね
togetter.com




自分は誰かの本で、断言はしないが「いや、やっぱり命令なんじゃない?」説にやや傾いた説を読んだ…誰の本で、どんな内容かは忘れた。


これは偶然だが重野なおき「軍師黒田官兵衛」は、いま太閤の北条攻めのところにネット無料公開が来てて、一手の葬式を豊臣秀次が執ったことをネタにしている。
緒戦に近い箱根・山中城攻めだとか。

第127回
younganimal.com

秀吉と秀次の関係 軍師黒田官兵衛伝 重野なおき
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