情勢的には岸田文雄とトップ争いをする、最有力候補との下馬評が高い。
[B! 自民党] 河野行革相、総裁選に立候補を表明 「日本の礎は、皇室と日本語」 [自民党総裁選2021]:朝日新聞デジタル
とこ
ろで。
こうやって、何か今では自民党のみこしにかつぎあげられるようになった(神輿は軽くてナントヤラ、ですが)タロー君。
だが、2006年……「たった15年前」、なのか、「もう15年前」、なのかですが、彼はそもそも「総裁選に出たいけど、推薦人が20人も集まらない」存在でした。
ただ、そこで彼は、極めて突飛で、当時において「非常識」なふるまいをし、
それによって知名度、存在感を増そうと、乾坤一擲の仕掛けを行った。
ある意味で、自民党のみこしにまでなった今より、こちらのほうがはるかにこの政治家の本質にかかわるんじゃないかと思うので、(これまでも何度か触れていたが)あらためてちょっと紹介しておこう。
推薦人ゼロで総裁レースに出馬
総裁レースが「次の首相」調査に引っ張られるようになって、これまでにはなかった新現象が見られるようになった。
次の首相」調査が安倍と福田の二強状態になりつつあった〇六年五月初旬。河野は国会内にある自民党記者クラブで会見し、「九月に行われる総裁選の候補者たらんと思ってやってきました」と切り出した。
河野が「総裁たらん」ではなく(総裁)候補者たらん」と言ったのは、立候補に必要な推薦人二十人を集めていなかったからだ。通常、「出馬表明」の記者会見は推薦人の確保に一定のめどがついた段階で行われる。大々的に「出馬する」と記者会見をしておいて推薦人を集められず、断念に追い込まれようものなら目も当てられないからだ。推薦人がゼロのまま、それを行うのは「妄想」と受け取られかねない。
だから、河野の記者会見は記者たちを困惑させた。そんなマスコミを尻目に、河野は公約として掲げた公的年金制度と義務教育制度の抜本改革について持論を展開した。さらに自らの推薦人については「世論調査が、推薦人制度に代わる予備選」と位置付けた上で、大真面目にこう力説した。
「(「次の首相」調査で)一番か二番、徳俵で二番に限りなく近い三番までに入れれば堂々と河野太郎を総裁選の土俵に上げてくれ、ということを仲間にお願いしようと思っています」
「訴えていることが国民の支持を得られなくて世論調査の下の方に沈んでいる、四捨五入したら数字がなくなってしまうような人間が、推薦人を先に集めても何の意味もないと思っています」
「三番」とは安倍、福田に続き、麻生と谷垣を上回る、という意味だ。河野にしてみれば麻生と谷垣が「超低空飛行」を続けている状況を踏まえた「現実的な目標」だったのだろう。
河野はこの後、宣言した通り推薦人集めは行わず、テレビや新聞などメディアへの露出を続けた。実は河野には、数人に過ぎなかったが推薦人のめどはあった。河野はそれにあえて触れず、「推薦人制度は既存派閥を守るためのシステムである」という主張を繰り返した。
メディアで、国民の関心が高い政策を掲げると同時に、「推薦人ゼロ」で旧来の自民党と一線を画す。これで世論の一定の支持を集め「次の首相」調査で安倍、福田の次につける。そうすれば自民党も自分を無視できなくなり推薦人も集まる――総裁選が「次の首相」調査によって「公選」化されたことを逆手にとった河野の戦略はあまりにも極端で、マスコミと自民党の多くの国会議員の冷笑を誘った。
「タロウショック」寸前
冷笑を買った河野戦略だが、私は河野が麻生と谷垣を「瞬間最大風速」的に追い越すこともあるのではないか、と思っていた。特に河野が同じ河野派が推す麻生を追い抜いた場合、それが同派に与える影響について、二人の名前から「タロウショック」という見出しまで考えて反応記事を想定していた。
自民党の若手議員の中にも、河野の行動を興味深い試みとして評価する者がいた。当時、当選一回の上野賢一郎は私に「河野さんは泡沫かもしれないが、メディアを通じて国民の共感を得れば、調査で「麻垣康三」の誰かを抜く可能性もある。そうなれば泡沫ではなくなる」と肯定的な見方を示していた。
そして私や上野の見方はある程度はあたった。TBSが河野の記者会見直後に行った「次の首相」調査で、谷垣を追い越してしまったからだ(河野3%、谷垣2%)。翌六月初旬の認査では2%で並んだものの、七月初旬の調査では再び河野(三%)が谷垣(二%)を抜いた。
これはTBSだけの現象にとどまらず、河野を調査の選択肢に入れた他のメディアでも同様だった。毎日新聞が五月十五日付朝刊に掲載した「次の首相」調査で、河野は谷垣だけでなく麻生に肉薄。翌月調査では二%で並び、福田が不出馬を表陽した七月下旬の調べでも三%で並んでいる。日本経済新聞の五月中旬、六月中旬の調査でも、二人は1%で並走している。タロウショック寸前だったのだ。
衝撃を受けたのは、「次の首相」調査での低迷に悩んでいた谷垣派である。小なりといえども派閥の領袖が「推薦人ゼロ」の若手議員並みの数値では、立候補の意義自体が問われかねない。
私は当時、谷垣派のある議員に「福田の不出馬がない限り、この傾向は続く可能性がある」と指摘した。その議員も同様の懸念を持っており、「八月十五日の終戦記念日に小泉首相が参拝した場合、それに強く抗議して閣僚(財務相)を辞任し、反小泉で総裁選を戦う」ことを進言するかどうか検討し始めたほどだ。
河野の戦略は、さっそく狙い通りの結果を出し始めたかのように見えた。しかし、大きな読み違いと落とし穴があった。多くの新聞、テレビ各社が、肝心の「次の首相」調査の選択肢に河野を入れなかったのだ。当選四回の若手議員が推薦人も確保せずに出馬の意向を表明するという極端な手法は、マスコミ各社に「突飛」「奇抜」というイメージを抱かせたのだろう。
さらに「安福」対決が喧伝されればされるだけ、靖国神社参拝問理を中心とするアジア外交が焦点となってしまった。福田が不出馬を表明した後、政策的には「年金抜本改革」一本やりのイメージが強くなっていた河野は福田票の受け皿とはなり得なかった。
結局、河野は四カ月後の9月初め、出馬断念と麻生支持を表明した。「年金の抜本改革を世の中に訴えて、世論調査の支持率を背景に推薦人をお願いする」という河野の試みは失敗に終わった。しかし、「次の首相」調査によって総裁選が公選化したという現状を、若手の一部に明示してみせた意義は大きいだろう。
つまり
河野太郎は、
・突飛な奇策を平然と行う
・それがやや滑稽なピエロ的な役割でもあまり苦にしない。
・永田町の味方増やしより、メディアを通じて「国民に直結」することを重視する
・ただし、それはメディアをあくまで「道具」「舞台」とする意志が透けて見える。あまり共感や仲間意識はない。
・だから従来メディアも、いわゆる”共犯関係”になるよりは、困惑や、あるいは不快感もそこはかとなく感じている。
・twitterはその象徴かもしれないが、大衆に訴える中で、河野とメディアの間にはある種の重なる部分があり、それは逆に共感や融合でなく、摩擦や対立を生んでいる
この補助線として、菅直人の下にはせ参じて政治にどっぷりかかわりをもった下村健一氏が、安倍政権以降の雰囲気を嘆いた言葉
『「権力・国民連合vsメディア」という構図が生まれてしまっている』という発言が非常に重要になるので、覚えておいてほしい。
↓
m-dojo.hatenadiary.com
引用資料紹介。
上野タロウショックの一件は、この本からの引用だ。
全く余談だが、この書名と「著者名」にもう一度注目を・・・・・・実はこの柿崎記者、共同記者からそのまま菅義偉首相のスタッフ、内閣参与?か何かになって、話題になった人だ。
しかも謎なのは、その後ほとんど…少なくとも自分は目にしなかった。内閣に入ってからら、賛否両論とかそれ以前に、何も動向が伝わらない・・・・・・・・・そのまま菅内閣は終了しようとしている。いったい今回、何をしてたんだろうな?
北岡伸一、松本健一、下村健一、高島肇久、湯浅誠、平田オリザなど、メディアやアカデミズム、ジャーナリズムから政治に入った人間の中でも、菅内閣のスタッフ入りした柿崎明二氏のその後の消息の知れなさは不気味だ・・・・・・・だれかご存じ?
ただ、この本は最初から最後まで興味深く、優れた書き手であり、取材者であったことも間違いないようだ。2006年の「タロウショック」にこれだけ注目し、記述した人は少ないのだから。