ふたつのメモ。
きょうの「赤旗」に、立花隆死去関連記事は一切なし。立花氏の「日本共産党の研究」を共産党は強く批判、非難。『犬は吠えても歴史は進む』では、立花氏を「犬」扱いし罵倒します。だからこそ、立花氏死去を伝えてほしかった。大人げなさを感じる。「立花隆氏に対する日本共産党の立場」を書いてほしい
— 小林哲夫 (@vys03470) June 23, 2021
「赤旗に 立花隆の 訃報なし」(五七五)
だが反共に、いや反響を考えたのか、どう扱うかをいろいろ革命的に検証したのか、その結果、各社の報道の翌日にひっそり咲く月見草…。
きょう(6月25日)の「赤旗」に立花隆さん訃報記事掲載。共産党との論争が何もなかったような内容で、著書「日本共産党の研究」に触れていません。「氏」ではなく「さん」づけはジャーナリストととしての敬意を表したのでしょうか。党の理論的責任者がで立花さんについて「赤旗」で論評してほしい。 pic.twitter.com/X5d5uKOrnT
— 小林哲夫 (@vys03470) June 24, 2021
ちなみに「赤旗 立花隆」で検索したら『反共を売り物にする有田芳生氏』を批判する記事が見つかり( ゚д゚)
立花隆さんで想い出す。1995年5月16日。麻原彰晃が逮捕された夜、上九一色村から戻り、筑紫哲也さんがキャスターの「NEWS23」に出演。ゲストの立花さんは、番組の最後で「文藝春秋」に僕が書いた原稿を評価してくれた。翌早朝「赤旗」を見ると名指しの批判コラムが出ていた。眼から鱗が落ちた一瞬だ。 pic.twitter.com/enVg6OJ4Kk
— 有田芳生 (@aritayoshifu) June 24, 2021
米原万里氏、共産党の査問で「殺されるかと怖かった」(佐藤優氏の証言)
米原氏の言葉を佐藤優氏が書きのこし、それを佐高信氏が引用するという手間がかかった話だが…
『ユリイカ』の2009年1月号は米原万里特集だが、そこに書かれた佐藤の一文を読んで衝撃を受けた。
2002年5月13日発売の『週刊現代』で、外務省のラスプーチンこと佐藤を東京地検が逮捕することに決めた、とスクープされるや、親交のあった米原から、電話がかかる。
「あなた、今晩あいていない、私と食事しよう」
「あいてるけれど無理ですよ。記者たちに囲まれて、集団登下校状態なんです。マスコミをまくことができません」そう答える佐藤に、米原は、「いいわよ、記者たちがついてきても」と言ったが、米原はマスコミの前に姿をさらすことで、佐藤に対するバッシングの防波堤になろうとしたのだった。
「組織が人を切るときの怖さを話しておきたいの。私は共産党に査問されたことがある。あのときは殺されるんじゃないかと本当に怖かったわ。共産党も外務省も組織は一緒よ」
米原は佐藤を信頼していたのであり、身体を張って、それを示そうとした。
佐藤優氏の文章も見よう
……生前、米原さんとは共産主義をめぐる議論を何度かした。東京大学大学院に在学している頃に、米原さんは、宮本批判を許さない共産党の体質に違和感を覚えるようになって、共産党を離党した。査問にもかけられたというが、「あのときのことは思い出したくもない」と言って、何も語らなかった。
米原さんは徹底した反スターリン主義者だった。ただし、マルクスやレーニンをヒューマニストととらえ、尊敬していた。筆者は、マルクスは尊敬するが、レーニンとスターリンは同じ穴の狢と考えていたので、ときどき米原さんと論争になった。
米原万里氏は、一九五〇年生まれ。「1976年3月、同社を退社し、同年4月、東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専攻修士課程に進学。1978年3月、同修士課程修了。」
ja.wikipedia.org
大学院入試の年に、アントニオ猪木とモハメド・アリが死闘を展開している。
ふむ、時期で言えば70年代半ばから後期にかけての日本共産党の査問。……あ、そりゃ殺されるかと思うような恐怖心を感じるわ。
いまは、どの程度ソフトになっているかはしらぬ。