INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

沢木耕太郎「深夜特急」新装版が出たので、格闘技が出てくる印象深い場面を


文字を大きくした、新装版らしい。コロナで世界が動かなくなったこの時期に、そうなったのは偶然か必然か・・・・・・・・

そういえば、この時代はまだまだ先進国と発展途上国の経済格差はいまよりよっぽど大きく、そして携帯や電子書籍などのモバイルも全く影も形もなかった。たとえば「写真を撮る」ことのコストや意味合いもまったく違う、非常に大きなものだった。
写真を撮ってくれ、送ってくれと何人からも要請されたりとね………。


で、ここでアジアを経由してヨーロッパに行くまでに、著者の沢木耕太郎氏はいくつかの格闘技にかかわっている。世界ケンカ旅行だ(笑)
印象に残っているところをピックアップしてみよう。

・・・・タイの映画雑誌だったが、驚いたことに日本の俳優が次々とグラビアで登場してくる。森田健作竹脇無我、志垣太郎、近藤正臣......。とりわけ森田健作竹脇無我の人気は高いらしく、扱いも大きく派手だった。この店の壁にも竹脇無我の 写真が貼ってある。 私が食べていると、いつの間にか近所の子が集まってきて、もの珍らしそうに眺めている。姉弟に日本人だと教えられると、英語のカタコトが喋れる少年が、おずおずと訊ねてきた。
「タケワキを知っているか」
予備知識があったのでそれが竹脇無我をさしているとすぐに察しがついた。
「知っている」
「フレンドか」
「フレンドではないが、知っている」
「ではフレンドではないか」
面倒なのでイエスと言ってしまった。
「イエス、タケワキ、マイ・フレンド」

すると、その例で私たちのやりとりを開いていた男の子が「ジュードー」と叫んだ。
先のひとりが 「コードーカン」と言う。つまり、竹脇無我が主演した「姿三四郎」 がタイで大ヒットしたため、地方の子にとっては、日本人は誰でも竹脇無我を知っていて、柔道に精通しており、講道館に属しているということになっているらしいのだ 。
「おまえもジュードーをやるか」
中学の体育の時間に少し練習しただけだったが、竹脇無我を友達だと大袈裟に言ってしまったついでというわけでもなかったが、つい頷いてしまった。
「イエス
コードーカン?」
「イエス

そこにいた子供たちは大きな声で歓声を上げた。そして、みんなで叫び合うと、ひとりの男の子がどこかへ走り去り、しばらくして引き締まった体つきの若者を連れてきた。
「誰だい?」
尋ねると、タイ式ボクサーの卵だという。どちらが強いか闘ってみてくれというのだ。助けてくれ、と悲鳴を上げたくなった。
 柔道とタイ式ボクシングとの決闘を期待している子供たちには悪いが、ここで肋骨でも折って日本に帰らなくてはならないなどということになったら眼も当てられない。やる気充分のタイ式ボクサーの卵に、敵に後を見せるわけではないが、講道館では私闘は禁じられている、と日本語で重々しく言い、英語の少しわかる少年には、
「残念ながら今日は時間がない」 などといい加減なことを言い、やっとのことでその食堂から脱出した。

※文庫新装版111-112p

ああ、なんたること……沢木は、講道館柔道に泥を塗ったっッツ!! 講道館は背中を見せぬっ。
ここはジュードーを名乗った手前、絶対にタイ式ボクサーと戦うべきだった。負ければハラキリをすればそれでいいではないか。
もしくは、打倒ムエタイを決意し、「沢木流新格闘術」を立ち上げ、ルンピニーでムエタイ王者を倒せるような弟子を育てればいいのだ。たわけもーーん。

四角いジャングル 1

四角いジャングル 1

四角いジャングル 1

四角いジャングル 1

そして沢木氏は始末の悪いボクオタであるので(笑)、国際式ボクシングとムエタイを比較して、後者をDisるボクオタしぐさに余念がない。たぶんメイウェザー那須川天心を倒したときは快哉を上げたと思う(笑)

…どこをどう歩いても、ここだと思う場所にぶつからない。私は毎日ただ惰性のよう にバンコクの街を歩き廻ったが、しだいに退屈するようになってきた。
ある日、このバンコクで、最もタイらしいところはどこだろうと考え、ああでもない、こうでもないと思いをめぐらしたあげく、ルンビニ競技場ではないかという結論 に達した。そこでは、週に四日、タイの国技ともいうべきタイ式ボクシングが行われていたからだ。タイ式ボクシング、つまり日本ではキック・ボクシングとして知られるようになった、タイ独特の格闘技である。


調べてみると、その日はちょうどタイ式ボクシングの興行がある曜日にあたっていた。夕方、私はルンビニ競技場までぶらぶら歩いていった。
(略)
…どういうわけか、チラホラと空席が見える場内で、独が固まっているところが何カ所かある。やがてその理由はわかった。前座が始まると、それほど好試合だとも思えないのに、その固まりを中心に熱狂的な喚声が湧き起こる。何人かが立ち上がり、株の場立ちのように、手を振り、指を一本出したり、二本出したりしはじめる。すると、客はそれらの男に何事か大声で叫びながら手を振ったり、握りこぶしを突き出したりする。第一ラウンドが終ると、さらに騒々しくなる。要するに、彼らは賭をしているのだ。
賭の仕組みはわかりにくいが、どうやら賭の元締めがどこかで賭け率を決め、その配下が客席の各所に散り、手を振っているのだということだけはわかった。賭け率は一定ではなく、その試合の最中でもどんどん変化していく。だから、一方がノック・アウトされそうになると、試合の興奮と賭のやりとりで、場内は信じられないような騒ぎになる。ところが、賭け屋の賭け率が気に入らないと、客同士で賭をするようになる。話がまとまると握手をして賭の成立を確認する。試合が終ると、あちこちで現金のやりとりが行われる。
(略)
試合はノック・アウトの連続だった。鋭いまわし蹴りの一発で血を吹いて倒れ、重い膝蹴りをみぞおちに喰らってうずくまる。どんな試合も二、三ラウンドのうちにはすべて決着がついてしまう。
ボクサーが倒れるたびに、観客は猛々しい喚声を上げていたが、私にはさほど面白いものではなかった。タイ式ボクシングにはあまりにも偶然の入り込む余地が大きすぎるように思えたからだ。私たちがふだん見慣れている国際式のボクシングと異なり、決定的な一発というのが技術の積み重ねによる研ぎ澄まされた一発というのではなく、ただやみくもに振り廻したキックが当たってみたり、伸ばしたパンチが出会いがしらにヒットしたりと、予期せぬことが頻繁に起きる。国際式にも予期せぬことは起こりうる。いや、その偶然こそが見る者を興奮させ、感動させる最大のものであるのかしれない。しかし、タイ式のように、予期せぬ出来事が頻繁に起きすぎると,それはもうほとんど予定通りの偶然とでもいうべきものになってしまう。興奮は一過性のもので、いつまでも震えが止まらないというようなことがない。それでもメイン・エベントには何かがあるはずだと期待して見つづけていた。とろが、セミ・ファイナルの中量級の試合が終ると、観客は一斉に立ち上がり出口に向かいはじめるではないか。
プログラムによればまだ一試合残っていることになっている。どうしてメイン・エベントを見ないで帰ってしまうのだろう。不思議に思っていると、最後の対戦者がリングに上がってきた。その二人のファイティング・ポーズを見て、一挙に事情が了解できた。彼らはタイ式ではなく、オーソドックスな国際式のボクサーだったのだ。つまり、それはメイン・エベントなどではなく、刺身のツマ、賭の対象にならない付録にすぎなかったのだ。
ガラーンとした競技場で、若い二人のボクサーは懸命に闘っていた。スピードのあるパンチの応酬による打ちつ打たれつのその試合は、それまでの肘や足を使ってのボクシングより、はるかにスリリングだった。
私はその闘いにほんの少し胸を熱くしながら、しかしこのバンコクという街にいよいよ自分が場違いな存在であるという思いを強くしていた。競技場という、言葉を要としない世界に入ってきたにもかかわらず、その観客たちと気持を近づけさせるとができなかったということが、私を滅入った気分にさせた。バンコクには、もうこれ以上いても仕方がないのかもしれない。いつまでいても、港やマカオでの日々のような興奮は手に入れられそうにない......。
後の試合が判定で終り、競技場からラマ四世通りを歩いているうちに、その思いはますます強くなっていった。

まー、こっちは個人の自由であるとしかいえない。

この後の旅でも、沢木氏は確かキョクシン・カラテについて尋ねられたり、イランでは極めて受信状況の悪いテレビで、モハメド・アリキンシャサで奇跡を起こし、王座を奪回する場面に熱狂する光景を描いていたはずである。