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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

11月25日「マンガ研究フォーラム」。漫画の『文法研究』の草分け「マンガの読み方」発行時代を振り返る /当時の文章を紹介

もうこれ宣伝してた気がしてたが、まだブログでは未告知だった。

マンガ研究フォーラム マンガ批評/研究の転換期 『マンガの読み方』の成立過程とその時代
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2017/10/post_4265.html
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みなさま 

今年は、『マンガの読み方』(宝島社 1995年)の制作主要メンバーを集め、シンポジウムを開きます。
ご参加、拡散など、ご協力お願いします。

夏目

2017年学習院身体表象文化学専攻 マンガ研究フォーラム

マンガ批評/研究の転換期

  1995年『マンガの読み方』の成立過程とその時代


2017年11月25日(土) 13:30〜17:00  Web_チラシv20171031-1.jpgWeb_チラシv20171031-2.jpg

会場 学習院大学文学部 西2号館501号室 西5号館B1F 参加無料

(会場が変更になりましたので、チラシ画像も変更しました)


13:35~14:35 60分


やや感慨深いのは、この学問が「始まった」のを見ていて、そのイメージがあるからいまだにこのジャンルが出来立てほやほやだというふうに思っちゃうのだが、もう既に、今や確立してるという立場から「あの黎明期のころは、こうだったたね…」と振り返るほどに歴史が積み重なっているという点だ。


以下の文章は、自分がまだ20世紀中に書いた、過去の文章である(いまではワードで開くのも一苦労……)。
今回の記念に、紹介しておこう。まだ「マンガを真面目に研究してる人がいるんだぜ!」が、驚きのトピックだった時代(だったと思う。まあ、やや自分の感覚が遅れていたのかもだが)

※文章の中の時代表現は、1990年代後半だと思ってください

学問は学ぶな、創れ。


現在、高校や大学ではたくさんの学問のジャンルがあり、そこで学び優秀な成績を挙げた人はそれぞれの分野で教授や助教授になり研究にいそしんでいる。では、学問のジャンルを、自分で創っちゃった人、というのはどうなるのだろう。
既成の学問では自分の好奇心を満足させられず、徒手空拳で一人知の荒野へ踏み出し、そこに新しい村を開拓した人たちがいる。
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日本マンガ学事始

ニッポンのマンガが世界に類を見ない発展と進化を遂げている事は今更言うまでもないが、そのマンガを「論じる」ことにかけても大きな学問的進歩が見られる。てるそこ
いしかわじゅん呉智英、村上和彦、唐沢俊一をはじめとする優れた批評家は多く、「BSマンガ夜話」に見られるような個々の作品論も非常に重要ではあるが、ここでは主に「マンガ」の構造それ自体を研究する人を紹介しよう。もっとも今日本で(=世界で)優れた業績をあげているのは、マンガコラムニスト夏目房之介氏である。


氏はマンガの実作者であり、それと同時に週刊朝日で10年以上擬似論文、学会発表的形式の「夏目房之介の学問」という連載を持っていた。ここで「普通学問的には扱われない事を、学会的な言い回しで言葉にする」という芸を磨き上げ、それをマンガの紹介に応用しはじめた…ところが、その分析と問題意識はたちまちのうちに本格的なものとなり、どこに出しても恥ずかしくない精緻な論理構成と着眼をはらむものとなった。と同時に、ギャグとユーモアを失うことなく(というか、それをこそ武器にして)、楽しい読み物としても成り立つものにしている。


彼のマンガ評論はちくま文庫「漫画学」がごく初期のものである。この頃は「漫画学」という言葉自体が一種の冗談であった…と彼自身が回想しているがそのためか、のちの手塚評論の様な本格的な評論ではなく、ごく軽いエッセイ、冗談文章の形で自らの論を展開しているのだが、それでもそのひらめきは見逃せない。例えば「少女漫画風にドラえもんを描いたら」という一編は、単なるパロディではなく「コマ」とストーリー・画の相互作用、モノローグとセリフの使い分けによる人物の内面表現、といった深い問題を間違いなく見据えていた。
ここでも分かるように、夏目のマンガ評論の特長は、それまでの評論がどうしても「ストーリー」に偏った形で行われていたものを、実作者としての立場から前述の「画とコマ」に着目したかたちで論じたことである。特に「コマ」によって物語を進行させていくという表現法式は当然マンガだけのものであるから、極端にいって彼の研究はそのまま世界に類をみない、オリジナルの研究になっていくのである。「手塚治虫はどこにいる」「手塚治虫の冒険」の二部作によって、戦後ストーリーマンガの創始者であった手塚作品の表現技法を緻密に分析した後、彼は「マンガの読み方」を他の研究グループと共に上辞して一応の区切りをつけた。


そして96年、夏目はそれを教育TVで、ある程度一般の人に分かりやすいように解説した。この時のテキスト「「マンガは何故面白いのか」(NHKライブラリー)を、この雑誌の読者には一番薦めたい。
これを読むと、「マンガ評論」という一つの小さな興味がどれだけ他の学問に大きく広がっていくかがわかるだろう。
「顔」を識別する人間のパターン認識と脳の問題(立花隆の「脳を極める」が役に立つ)、日本語はなぜ擬態語・擬音語が多くまた普通の言葉との境界が曖昧なのか、マンガの枠組みをマンガ自体が壊す、フィクションの二重性という問題など、まさに彼の問題意識が、さらなる巨大な知の平原へどこまでも膨らんでいくのが分かるだろう。


最新作「笑う長嶋」では“長嶋茂雄”という実在の人物がマンガに描かれるとき、カッコイイヒーロー像から大ボケの愛すべきキャラクターにいかに変遷していったか、そしてそこに戦後の社会と国民意識の変化を見て取っている。まあこれは半分エッセイ的なものなので学問的な厳密さという点から見ると首を傾げたくなるところもあるがそれはそれ、夏目氏があらかじめ答えている。
「『ホントかよー』と言ってるそこのアナタ、間違ってててもだれも損はしないのだから気にしないように」
だそうだ(笑)。


ああそうそう、言うまでもないがマンガを「研究」したいなら相相原コージ竹熊健太郎の傑作批評マンガ「サルでも描ける漫漫画教室」(小学館)を当然読んでおくように。この作品では、
マンガのストーリー展開(の、御都合主義)をも視野に入れて、それにどのようなパターンがあるか、どのような構造があるかかについて展開しているし、最近「オタキング岡田斗司夫
少しずつ体系化を進めている。