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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

神話と虚実と駄法螺と…ユセフ・トルコ氏逝く

本来なら専門誌などが報じたところで訃報は確定した情報として扱うべきなのかもしれないが、2人の業界関係者が断言し、一人は「奥さんと電話で話した」と明言しているので、事実として考えていいだろう。

2013年11月05日訃報・ユセフトルコさんの (グレート小鹿ブログ)

http://blog.livedoor.jp/g_kojika/archives/51930859.html
突然前日本プロレスで活躍していたトルコさんが先月18日亡くなったとのニュースが舞い込んで来た……先輩である彼の事をここで話さない訳にはいかなかった(略)
トルコさんとは自分がプロレスに入った時の先輩です……今年も神奈川県相模原で大日の試合をした時に社長の登坂に小鹿に宜しくとの伝言があったばかりでした、
…ご冥福をお祈り致します。

山口日昇 ‏@noboru_yama (twitter

https://twitter.com/noboru_yama/status/397578505774309376
今朝トルコさんの奥さんのハルコさんと話したら、亡くなった10/18の午前中までは普通だったが、突如倒れ、心筋梗塞低酸素脳症を併発して逝ってしまったらしい。生前から「俺が倒れても誰にも言うな」と口癖のように言っていたので外には広めなかったという。享年82歳、おヘソの下は…合掌!

もちろん自分は、彼の試合を見たことはない。梶原一騎漫画でのシビれるような”助演俳優”ぶりと、紙プロ初期を彩った名インタビューイっぷりで印象に残ったわけだ。


プロレススーパースター列伝」ユセフ・トルコ名場面集

手元に「四角いジャングル」と「男の星座」があれば、そっちも紹介して比較するとさらに面白いんだが、いまは実家に置いてあってね。

プロレススーパースター列伝 (5) (講談社漫画文庫)

プロレススーパースター列伝 (5) (講談社漫画文庫)

で、梶原一騎サーガでも、手塚治虫と同様にスター・システムが使われたと考えると分かりやすい(笑)。「列伝」では後年のトップファイターを手厳しく新人時代にしごいた鬼軍曹、悪いのっとり犯に正義の一撃を加える硬骨漢。
「当時この現場を見ていたユセフ・トルコが、今はわたし(梶原一騎)のスタッフなので、この作品だけで真相を伝えよう…」と言われたら、こどもは納得するしかないではないか(笑)
 
「四角いジャングル」ではアントニオ猪木 vs ウィリー・ウイリアムスという世紀の一戦を公平に、的確に裁いてドローにした名レフェリー。
この試合の前に
梶原「トルコよ、この結末をどうしよう?」
トルコ「先生の本職は何?オハナシを考えてくれれば、ワタシはそのように裁くよ」
梶原「う〜ん、じゃあ猪木はアバラにひび、ウイリーは腕の腱が伸びて…」
という”鉛筆会議”があったことを自分が知るのは後日だ(笑)。
 

そして「真相を語る」と銘打って始まった「男の星座」では、自身の地位の浮き沈みや空手・プロレスとの距離感が時々かわる梶原一騎(梶一太)との、お互いに利用価値を値踏みしながらの・・・虚虚実実ながらもユーモラスな駆け引き…を展開する一方、重要な情報を「ついうっかり」しゃべってしまうことで話を大きく動かす役目をしていた。
その両方ができるような、手のひらがえしもぶっちゃけ話も平然とする奇妙な愉快ぶり…ゲゲゲの鬼太郎でおなじみのねずみ男のような、そんな人物描写ができたのはやはり梶原一騎がスタッフの一員であったときから観察をしていたからだろう。
本当に「梶原一騎実録物語の最優秀助演男優」というキャッチコピーは考えれば考えるほど彼にふさわしい。
 

ウィキペディアだけでもわかるうさんくささ

ウィキペディアの「ユセフ・トルコ」

ハワイで不動産業、電気工事会社役員などを務めたが、特殊株主活動に興味を持ちコミッショナーだった二階堂進を介して衆議院議員出身の超大物総会屋・栗田英男と知り合い、1976年頃は小川薫の用心棒のようなことをやっていた[1]。
1978年、梶原一騎らとともに、大相撲の高見山千代の富士をエースとして、フジテレビの放映による新団体「大日本プロレス」…設立を企てたが頓挫している(参照・梶原一騎#大日本プロレス設立計画)。
1980年2月27日に行なわれた、猪木VSウィリー・ウィリアムス戦ではレフェリーを務めた。翌1981年5月、アブドーラ・ザ・ブッチャー新日本プロレスに移籍させ、当初はブッチャーのマネージャーとしても活動。力道山のマネージャー時代に親交を結んだ梶原一騎の梶原プロダクションに籍を置き、役員兼用心棒のような役目も担っていた。同時期、日本イスラム協会にも所属していた[5]。
1983年6月、ブッチャーの著書『プロレスを10倍楽しく見る方法』(ワニブックス・1982年)のゴーストライターだったゴジン・カーンを恐喝した容疑で、梶原ともども逮捕された。
のちに由利徹に弟子入りし、喜劇俳優としても活動する傍ら、1990年代には栃木県大田原温泉にあるホテルの会長も務めていた。

 

そして「紙プロ

まだちっちゃい版型のころですよ。それもかなり初期で、ある意味、あのインタビューが「紙プロ(のちのkamipro)」の方向性を位置付けたのではないかと思っている。
これも、いま手元にあれば正確に引用したいのだが手元には無いので記憶でかくが、
「当年とってXX歳、おヘソの下は○○歳!!(だいたい半分ぐらいの年齢を自称。少しずつこっちも年をとっていくのが笑う)」

増田俊也(作家) ‏@MasudaToshinari
https://twitter.com/MasudaToshinari/status/397598958215639040
ユセフ・トルコさんが亡くなったそうです。トルコさんが「いま付き合っている彼女は1006人目だ」と小声で言ったので「1006人!」と僕が声を上げると顔をひきつらせて視線を僕の後ろに向けた。そこには若い美女が。現在進行形の彼女に1006人目の彼女だということを聞かれたくなかったのだ。

 
グレート東郷をやっつけた?あんなのはババンのバ〜〜〜ンだよ」

「イノキーッ!おれと戦えーーーッ!!」
 
など、実に奔放な発言をしまくりながら
「俺だけだよ、リキさんに『この朝鮮人!』と言ったのは」「俺は国籍は日本人だけど、オスマン魂は持っているよ。リキさんはなぜそうじゃないんだ、とね」と、戦後史の急所ともいえる重要な証言をしている。
のちに、このやりとりは

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

でも再現されているわけで……いささか歴史の証言者としては、その発言の信頼性の面でアレな部分もあるが(笑)。
紙プロkamiproへのユセフ・トルコ登場が計何回あったかは各自調査でお願いしたいところだが、おそらく最後?だったかもしれないインタビューはこちら。

☆おい、ホントかよ! 猪木vsアリ戦に驚愕の新事実発覚!? ユセフ・トルコ「こんな八百長、知ってるかい?」

とにかく、こんな人間はもう出てこない・・・と思う一方で、こういうスタイルやタイプの人間は、時代、時代で必ずいるかもしれない、と思わせる、人間存在の一典型でもあったような気がする。


また歴史が、その歯車をひとつ回した。