もうひとつ新聞記事からいくか。
2013年2月5日、これも朝日新聞。例のスタン・ハンセン「体罰にラリアット」の記事の下に掲載された
「ガンダムに学ぶ 8 架空歴史論」評論家、宇野常寛さんに聞く、という記事だ・・・。
一番大きな見出しは「『宇宙世紀』解釈あそびに警鐘」である。
まず前半を要約します
・ガンダムの魅力は、映像では直接語られない「架空の歴史」という面も大きい。
・初代ガンダムの1980年代、ファンは劇中では簡単にしか触れられない作品世界の社会構造や科学設定を「本当はこうでは」と考察、発表することが盛んだった。
・この考察はアニメ雑誌なども特集、そして作り手もその設定を取り入れた続編や、プラモなどの関連商品を作った。
・つまり「宇宙世紀」という壮大な架空史が送り手と受け手の相互作用で出来た。
・「アラビアのロレンス」が「第一次大戦の一場面を描いた映画」であるのと同様に、初代ガンダムは「宇宙歴0079年の出来事の一場面を描いた作品」と見られるようになった。その証拠に同じ時期の別の視点、別の場面を描く作品は多数ある。
・宇宙世紀はファンが遊ぶ「箱庭」になった。
まさに、である。
自分は再放送世代だし、結局やっきょく初代しかちゃんとトータルで見てないよ。そっちのほうが珍しいかもな・・・あ!ガンダム00総集編ってどうなったっけ!!
でもそんな自分が、まだ小学生の時代、一番面白かったのはモビルスーツのアクションより、プラモ作りより、やっぱりこの「架空歴史」だった。なるほど架空の歴史というのがあるのか、画面に書かれていなくても開発史とか、別の戦線での戦争とか、イデオロギーとかがあるんだ・・・とね。そう知ったときの感動というか、躍動感は忘れがたい。そういえば「シャーロキアン」の概念を知ったのと、ガンダムに接したのはちょうど前後しているような気がする。
だから上の考察はリクツ以上にまず、感覚として納得した。
ただ!!
この記事で、自分が「あー、そうなのか」と思ったのはこの記事の後半。
ここは正確に引用しよう。
しかしシリーズの生みの親である富野由悠季監督は、こうした箱庭の拡大をどこか嫌悪していたところがあるように思えます。架空の歴史と設定の解釈の遊びに没頭する快楽に、映像と物語のダイナミズムで対抗しようとしていたのではないか。
たとえば・・・(略)これまでのシリーズで描かれた文明のすべてが滅んだ遠い未来・・・滅び去った過去の歴史は「黒歴史」と呼ばれ忌避・・・ここに富野監督の、自ら作り上げた箱庭へのアイロニーが込められている・・・
うーん。
自分は前述したようにシャーロッキアン的考察もガンダム的、銀英伝的・・・あるいはアシモフ・ハインライン的というべきか・・・そういう架空史考察は大好きだ。
以前、「進撃の巨人」が軍事的に納得行かない、という有名ブロガーと作者がネットでやり取りしたのを見て、こんな記事をかいたこともある。
■「進撃の巨人」軍事学論争〜設定で遊べ、裏設定で遊べ、設定へのツッコミと辻褄合わせで遊べ。名作でしか、それはできない。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120503/p6
だけど、最初の最初に自分でその世界を構築した人にとっては・・・ちょこちょこ、軽ーーくならたぶんニコニコ、俺も偉くなったよ・・・としみじみだろうが…ガンダムのように、ファンの設定がスポンサー様のおもちゃ会社にフィードバックされ、勝手に「ホワイトベースがソロモン攻略に乗り出している一方で、地球の戦線では・・・」と同時進行の別の世界がつくられ、自分の知らない新しい「ジャングル戦用ザク」とかが店頭に並ぶ・・・・って、どっかで腹立ててしまう、かもしれないわな、たしかに。
だって、要は鴨肉が出てきたとき、「この、店が出す血のソースはいらん!」といってワサビ醤油で食うようなもんだからね。美味いはいいが、店がむっとしてもおかしかない。
ただ、富野カントクが怒っている、むっとしている、というのも記事を読む限りはそもそも仮説だし、富野監督のパーソナリティはそもそも
あまりに個性的すぎるので(笑)、一般化できるかも疑わしい。
やっぱり自分の世界が他人によってどんどん進化発展、精緻になっていくのは快感なのかもしれない。あるいは、ひょっとして快か不快かは印税の発生によるのかもしれない(笑)。
これは、作り手の感覚はどうなんだろう。
キャラクターの性格が変えられた、とかドラマ化した作品があまりに原作と乖離した・・・とはまた別よ。「自分の作品世界が他人によって広げられ、ルールが精緻になっていく」というパターンの話。
よく考えたら、そんな経験をするクリエイター自身がまれだし、それは基本、世俗的には大成功しているということだしうな・・・。