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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

神社とイスラーム

http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20120517/p1で、
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20120515/p1
への私のブクマに対してコメントいただきました(ややこしいな)。そのブクマは別のテーマに使ってしまったし、もともと字数も足りなくなると思われるのでこちらに書かせていただきます。
やや、箇条書き風に。

…「原理主義者じゃないなら、神社にも参拝するだろう」という発想をする人は、日本に住むイスラム教徒が現に神社への参拝を拒否するという場面に遭遇したとき、容易に「こいつらは原理主義者だ」「イスラム教徒は原理主義者だ」という発想に飛びつくでしょう

もとより仮定の話ですが、仮定に仮定で返すなら、「イスラム教徒なら、神社には死んでも、絶対に参拝しないだろう」という発想をする人は、イスラム教徒が現に神社に参拝するという場面に遭遇したとき、容易に「こいつらはカーフィル(不信仰の徒)だ」「日本人に利益で釣られるか弱みを握られて仕方なく屈している(≒現世の利益や利害を、アッラーより優先させるカーフィルである)」という発想に飛びつきかねません

で、ぼくは引用いただいているように『民俗的背景等で他の聖的存在に寛容なムスリム「も」厳格派「も」います。』という認識なので、参拝を拒否する人も、参拝する人を見てもどっちにもならないで済む心配が客観的に一番ひくいですよね(笑)。みんな、僕に学んではいかがでしょう、と。

しかし靖国は「聖所」ではなく神殿です。

さて、そこなんですが、自分は何度かこのブログで、特に宗教面における「見なしの自由」というのを擁護していました。で、カーディル氏に聞いたわけではなく、あくまでひとつの可能性ですが、ムスリムをはじめとする一神教はそもそも理屈を詰めると他の神を「存在しない」としているので、他の宗教(特にあちらから見て”素朴”に感じる宗教)は「残念ながら聖典に触れて神の言葉を知ることはなかったが、神の聖性をかすかに感じて何か神妙になったのだろうな」という『惜しい!賞』みたいな捉え方をする考え方があるらしいんです(笑)。もちろんこれはイスラムが安定してから、また例えばインドネシアなど、遠方に伝播する中で徐々に芽生えた発想でしょうが、あとは「他の宗教であっても熱心に信仰する人とは喧嘩もする一方で、信仰心自体が薄いやつより話が通じる(こともある)」という普遍的な親しみもあるのかもしれませんね。
(むろんこういう発想を全面否定するムスリムもいるでしょう)


まあ自分も、こういう発想で異教に融通無碍に接するイスラム教徒のことを最初に知ったときは相当おどろきましたよ。と同時に一種の「とんち」に近いなぁ、と感心したりもしましたけどね。


もちろん熱心な靖国神社の信者、熱心な神道家の中には、こういう「見なし」に対して『失礼な!』とする人がいるとは思いますが、少なくとも自分はこれぞ「見なしの自由」だとニコニコしちゃいますね。

前も書いたけど「私はこの神社から、ある魂を持ち帰った」とその人が”見なす”のも全然OKだし、神社が「やるのは勝手だが、持ち帰れてなんかいませんよ」と”見なす”のもOK。(なにしろ私は、名指しで「1日も早く死ぬよう神に祈る」という自分への呪いですら「見なしの自由」として容認した寛容っぷり。)
ある意味私のほうが、靖国に失礼な態度かもですよ(笑)。


もちろんこういう理解は、そもそも神社に馴染みのない方でしょうから、いろいろ知識を深めていく中で本人も最初の認識と異なってくるかもしれません。それは「やはりここには共通性があり、アッラーの精神が息づいている」という方向か「やはりこれは無明の民の邪教にすぎぬ。アッラーに仇なすものなり」となるかは、それこそ”神のみぞ知る”と。うまいな。


そういえば、こっちは有名かな。
私が聴いたのはキリスト教徒のほうだけど「私は仏教を否定しません。仏教は”極めて学ぶ点の多い哲学”であり、釈迦は”偉大な哲学者”ですから」と言ってました。これが仏教への冒涜か、ひとつの「見なしの自由」かは分からないですが、「ふたつの宗教を信じることができないなら、片方は宗教扱いしなきゃいいじゃない」(神道非宗教論なんてのもありましたね、逆に高めるような形ですが)ということで”瞑想法として”座禅を取り入れる教会があったりもします。
これは「外野からはいっけん、一神教が相容れない”他宗教”を受容してる奇妙な振る舞いのように見えるが、当人にはいろいろな理路がある」一例として提示。でもたしかイスラム教徒でも「仏教は宗教じゃなくて哲学だよ」論法を使っていた人はいた気がするな・・・あとで調べてみましょう。

さらに「異教を敬いつつ不帰依の作法」などというのは、まさに語るに落ちたというもの。日本の右翼がウイグル人の苦境につけ込んだということを認めたようなものです

これ、ちょっと分からないので逆に詳しい説明をお願いします、すいません。
「異教を敬いながら帰依はしない」というのは、これからさらに、皆が持たねばならないスキルだと思うんですが・・・てかそれが無いと自分もモスクや教会にいけないし寺にもいけないし。もちろん、信仰を突き詰めていけば「異教に”敬意”を示すだけでも真の神への冒涜。むしろ破壊せよ、侮辱せよ」的な考えが結論として導き出される可能性は否定しないのですが。

ネガティヴ・キャンペーンに格好の材料を与える

それは、例えれば「ネガティブ・キャンペーンの材料を与えるから、韓国のキリスト者安重根列福すべきだ、なんて言うべきじゃなかった」みたいなものでは。
安重根列福に対し、おいらが賛成した文章

■宗教における「見なしの自由」を擁護する…彼の為でなく、我が為でもなく。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20111109/p3

靖国抜きで支援すればいいよね」と言えばすむことなのに

靖国抜きで支援して『も』いいよね」と聞かれればイエスですが。
ちなみに
靖国つきで支援して『も』いいよね」にもイエス
靖国つきで支援しなきゃ駄目だよね」にノー。
靖国抜きで支援しなきゃ駄目だよね」にノー。
行ってもいいし、行かなくてもよかったのではないでしょうか。本人がそれなりに拘束もされずに来て、やっているのなら。


ちなみに「弱みにつけこんで、相手にいやいやながらやらせている…」的な推論をたくましくするなら、中国外交部のスポークスマンの批判や、それを受けた中国メディアの報道も、言っている当人は「こんなのどうでもいいじゃないか。うちの偉いさんたちも、ちょっと無理筋な批判をしているよなぁ・・・」と内心では思いつつ、中国共産党とその政治勢力が持つ暴力的なパワーに恐れをなして「言わされている」のかもしれませんヨ(笑)?
(※その言動は、弱い立場だから意思に反してやらされてるのだろう、という論法の元となる「強制力の強さ」での比較です。こっちのほうが強そうですよね?)

参考リンク集

深いところにつくブクマなので目に付く人が少ないかもと思い。これも一例で(トルコの方な点も注意)一般化できぬ前提の上で再紹介。 
http://www.aikido-nipponkan-japan.com/06-36.html

、「日本ではこの様に参拝」と教える。彼はイスラム教徒、厳格な人は決してアッラー以外頭は下げない。私は開祖が神社に納められ神様扱いされている事には疑問があるので立っていると、彼は私が教えた通りの作法で参拝しているではないか。後日通訳を通してその事をたずねる。「私にとってアッラーは唯一絶対の神、私はアッラーの教えの元に他の神々に敬意を表したイスラムは本来争いのない宗教です」そばで立っていた私を彼はどう思っていたのか。恥ずかしい限りである。彼にとって開祖の地、岩間の訪問は純粋なものであった。神社に頭を下げる彼は、神を超越し、合気道に、開祖に誠を捧げていた

同時に、id:apesnotmonkeys さんはこれを書いた人のように、考えすぎるほど考えて配慮した態度が望ましいと言っているのだろうな、と思うのだが。(この場合、考えすぎるほど考えたら結果的にはやっぱり考えすぎだった、わけだが)


http://unkar.org/r/news/1261294948
ロッコ駐日大使の言(らしい。というのは・・・以下の通り)。
転載されてるのがへんなところなので、ダイレクトに存在を証明できないのですが、基は毎日新聞の記事らしく、改変でもされてなければ、参考にはなるでしょう。モロッコもなかなか特殊な宗教風土ですが。

(略)・・・「伝統文化継承トークフォーラム」 日本舞踊芸術文化協会主催、観光庁毎日新聞社後援)の第2回が11月30日に東京都渋谷区代々木の代々木八幡宮で開かれた。今回は同八幡宮の平岩昌利宮司イスラム圏であるモロッコのサミール・アルール駐日大使、日本舞踊葵流家元の葵七皆さんの3人が「JINJYAの魅力」などについて熱心に話し合った。
(略)
−−大使は先ほどお参りされましたがイスラムの世界と神道の世界をどう感じられましたか。
 
大使 イスラム教というのは他の宗教や人々への尊敬が根底にあります。寛容であり、オープンなのです。ですから、神社でのお参りの仕方も受け入れられます。神社と同じようにモスクも人々の心のよりどころになっています。神社もモスクもそれぞれの歴史に基づいており、互いに尊敬しあうものでしょう。そして精神的平和を求めることが共通していると思います。

ちなみに
「おみこし(神の輿!)をかつぐ」のは、入れてもいいんですかね?

【追加】逆例。非イスラム教徒がイスラムの行事に参加する場合は

これはわき道ね。
http://www.yuriko.or.jp/column/column2011/col11fuji0805.shtml

久しぶりに首相官邸に出向いた。
 小泉政権時代に始めた官邸におけるイスラム諸国大使とのイフタール(朝食会)。政権が代わっても続けられているのはよいことだ。止められないようにしたからだが…。私にもお招きがかかり、中東・北アフリカ訪問の直前ではあったが、久々に官邸へと向かった。
 夕方に朝食会というのは、イスラムの教えによる断食月ラマダン)に行う日没後の食事会のこと。文字通りのブレーク・ファースト(断食を破る)である。
 イスラム各国がそれぞれ自慢料理1品を官邸に持ち込んでもらうのも、これまでと同じ。迎える主である首相が毎年代わるだけである

この行事の発案者は、エジプト留学体験もある小池百合子氏。
これとは別に、どこぞの日本からの大使が、異教徒なのにラマダンを自分も自主的に体験し…周囲からは大いに評価されたらしい(といっても自己申告だったという記憶が)。だからたぶん、信徒じゃないけどそういうことをやるというのは逆に歓迎されるのだろうか。
正直自分は「インシャラーとかって異教徒も使って良いのか?」とちょっと考えたことも(笑)
映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」ではアフガン難民キャンプを訪れたアメリカの大物政治家が、民衆とともに「アッラー・アクバル!」と叫ぶシーンがあった。


ある歌。

分け登る_ふもとの道は多けれど_同じ高嶺(たかね)の_月を見るかな


書き忘れの追加。とあるシミュレーション。

同性カップルの結婚式。
「賑やかに祝ってほしい!あなたの友人知人、誰でも一緒に呼んできて!」と頼まれています。
 
あなたには
「熱心なクリスチャン」「熱心なムスリム」であることはわかっている友人がいます。

「一緒に行こう」と誘うのがいい? はじめから誘わないのがいい?



=====この下が、ご返答を受けての(←※先に読んで下さい)19日未明以降の更新です=====

18日夜に新エントリいただきました。それに対して

■肩すかしにもほどがある - Apes! Not Monkeys!  本館
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20120518/p1

を読んで。

靖国参拝」に対するイスラーム世界の最大公約数的な反応をどう推し量るか、です

こりゃおどろいた。こういう宗教観に対しての判断基準って「最大公約数」でいいんですか。それも周囲の、その世界の「最大公約数」で。
言い換えるとあれですね、「世間様が許さない」的な(笑)。
わたしはこういう点は、それぞれを尊重するべきだと思うんですが。同じ宗教でも、巨大ならばそれぞれに違う宗派のある世界で「最大公約数」をあらかじめ予測し、それに従うってどんな異端狩りですか。
 
そういえば、上で私、「同性婚カップルの結婚式に、熱心なムスリム、熱心なクリスチャンを行こうと誘うべきか」、という話を出したけど、『最大公約数的な反応をどう推し量るか』かあ・・・。
マニュアル的にこれに対して「最大公約数」を判断するなら、徐々にキリスト教世界…の中でも先進国を中心に…はそれを承認しつつあるのだろうけど、カソリックは組織の統一見解として否定しているのだから「最大公約数」だとどうかなあ。イスラーム世界だと、今現在はさらに「どうかなあ」だと思いますすね。

するってえとその場合、同性カップルの結婚式に、誰かが、仮にキリスト教イスラームの方を誘って、その人が出席、祝福の列に加わったりした時は・・・・・・上の「最大公約数を推し量れ」論法で判断すると、誘った人は『非難されるべき』、ということになるのですかね。
進化論の展示された博物館は・・・(笑)
私は、いかに「神社参拝は問題ない」「同性カップルの結婚も、神が祝福する正式な結婚である」という発想が例えば仮少数民族の思考法、あるいは個人の思想に留まるもので、いわゆる「アラブのえらいお坊さん(「コーヒールンバ」より)」が考える多数派教義と別の主張であっても、一向にさしつかえないと思います。

彼としては「参考リンク集」以下の部分で答えたつもりらしいですが、全然答えになってないですよね。特殊な事例過ぎて、とても一般化できません

私もこの問題は「一般化できない」というのが結論なんです(笑)。それぞれでよろしい
でも、今までそちらが知識として知らず、予想もしていなかった興味深い事例ではあったでしょ?
 
まあ、片方は一武道家ですが、もう片方はイスラム国の一国を代表する大使が、その赴任国の官庁と同国有数の発行部数を持つ新聞社が後援・取材しているシンポジウムに出席、登壇した上での公の発言であり、この発言がイスラーム世界では(悪い方向に)とんでもない大スキャンダル、批判必至の問題発言であるなら、記事にした新聞社なんかはニュース価値の高い大スクープをむざむざと逃したおまぬけな話ですな。

また、その大使の(文中に出てくる)お参りはシンポジウムとまったくの無関係ではなく、その団体・シンポジウムと多少関係したものであるようですね。主催した「日本舞踊芸術文化協会」も批判されるべきでしょうか?

てか、「特殊事例としては存在する」とまで後退?されたのなら、今回も「特殊事例」で落着する可能性〜これはあるということが判明したと。これは主催団体や本人がそう思っているかは別として

なんでムスリムでもない人間がムスリムに対して「カーフィルだ」などと非難する動機があるの? 

はて『「イスラム教徒なら、神社には死んでも、絶対に参拝しないだろう」という発想をする人』の仮定の話ですから、そこには今現在ブログやブクマ、コメントを書いている人に限定されず、実際に信仰を持つイスラム教徒も含んでいますよ(私はそういう発想をするムスリムが「いない」とは思っていないので)。てか、もともとそちらが、そちらでいうところのイスラムの「最大公約数」の立場にたつ人がこの話に反応するということを想定して話をしてたんじゃないすか(笑)? その場合、私が例に挙げたような可能性はありますか、ないですか?
また、ある宗教を信仰していない人でも、その宗教者や信徒を「○○教徒なら(その教義上□□となる)くせにXXXとは何だ」「なまぐさ坊主」と批判する例は実際いろいろありませんか?

>見なしの「自由」・・・(略)要するにこの人は、ラビア・カーディルさんの靖国「参拝」問題を、こう理解しているわけです。イスラム教徒が神道を自己流に解釈して対応したとしても大目に見てやろうぜ、と。

この概念、「Apes! Not Monkeys! 本館」読者も覚えて持ち帰ってくださいね(笑)で「大目に見る」と「自由」の概念は違うんですよこれが!!!意外かもしれませんが!!!
仮に「大目にみてやりたくない」場合でも、彼らの自由は守る。私たちの自由も守る。
『私は君の宗教的な見なしに反対だ。しかし貴方の見なしを守る』

モスクや教会や寺にただ行くことと、それらを「参拝」「参詣」することとは全く別じゃん

さてそこだ。・・・と貴方は「見なし」ている。その自由を擁護いたします。
ところが、宗教の考え方では異教の施設に行ったり見学することもその異教を崇める行為、神や仏に背く行為だと考え、神社でいえば「鳥居もくぐれない」なんて考えをする人もいますね。
逆に、上で例に挙げたように、お寺で『座禅』を組んでも、それは神のために瞑想する一環にすぎないと考えるキリスト者もいるわけです。神輿をかついでわっしょいわっしょいやるのは、降りてきた神社の神様をかついで練り歩く神聖な宗教行為と思う人もいるかもしれないし、面白くて伝統的なエンターテインメントとして受け止める人もいるかもしれない。
  
どこからが「敬意」でどこからが「信仰」なのか…、となると<それは幅があるよね>って話なんじゃありませんか

【資料追加】
2013年6月11日の新聞記事より。
http://mainichi.jp/select/news/20130611k0000e020157000c.html
イスラム教徒が口にできる「ハラル料理」を提供するレストランに案内、礼拝場所や時間も確保する。ハラルとはアラビア語で「許された」の意味で、イスラム教の戒律に反していないことを示す。ただ「道徳観には個人差があり、多様な要望に柔軟に対応するのが大事」(岸田社長)。熱海では芸者さんに酒の代わりに水を入れたとっくりでお酌をしてもらったこともあったという。

逆に『違う神を信奉しており、神道の信者ではありませんが、敬意の表明として昇殿して儀式にも参加します』(※今回の例では、実際にはどの程度まで儀式に参加したかはよく存じ上げませんが)という人がいて、それを神社側、神道を信じる側が「いいですよ」「それは困ります、お断りします」となるかどうか、これは施設管理者側の意思や教義でしょうな。
そして『それは私たちの考えでは「参拝」ですね』『それは私たちの考えでは「参拝」とは言えません』と神道側が、どう判断するか。これもまさに「みなし」の一環かと。
 
もちろん、このへんは言ってる団体側が不勉強、もしくは日本的ないい加減さで表現が厳密ではなく「よく考えてみたり、調べてみると彼らは『表敬』に過ぎなかったですね」というふうに今後なったとしても「さもありなん」な、あり得る一可能性だとは思います。
 

「共に祈ることはできなくても、祈る為に共にいることはできる」が、近年の宗教和解のスローガンでもありました。


信者・信仰の定義でいえば、イスラム教徒はそれこそ公式見解として「信者の親から生まれた子は自動的に、生まれながらのムスリムである」「イスラム教徒に棄教は無い(絶対に許されない)」と"見なし"ているところがあるわけです(「最大公約数」かどうかは各自判断のこと。オバマも含め)。

1942年12月8日、ファティマの予言の一部実現を記念して、ローマ教皇ピオ12世は全人類を聖母マリアの聖心に奉献した。私も人類の一員だが、まさか自分がマリア様にささげられていたとは知らなかった。だからといって、私は教皇に抗議するつもりはない。

またキリスト教では、イエスは全人類の罪をあがなうために十字架にかかって死んだと説いている。私はキリストに身代わりをたのんだ覚えはないが、キリストを訴えようとは思わない。それがキリスト教の教義だということを知っているからである。宗教のドグマに他の宗教は介入できない。(佐伯真光


そういえば、昔「俺は格闘技の神の子」と自称し(これ、本当は意味が違っていて「レスリングで五輪出場者の父親は神様のような存在で、俺はその子」という意味だったそうですが)、それがキャッチフレーズになっていた山本KID徳郁に対し、対戦するマイク・ザンビディス(クリスチャン)が「私たちはみな、神の子です」と応じ、みごとにKO勝利したことがあったなあ。
実に余談だ。

靖国神社安重根と同じレベルで・・・

安重根記念館と靖国神社、訪れたときに個人的にどっちが感激したかというと、行く手間の分もあり正直前者でしたが、ここで問題にしているのは「その行為を避ければバッシングは発生しなかったのに!!」という批判の仕方なら(実際にそれが存在する段階で)両者同様に成り立っちゃいますよ、という指摘です。


====この下が20日夜の更新です======

「とりあえず安全確保の緊急避難として!」という主張なら、やや理解(プラス代案)

リンク先コメント欄から

生存を危うくするような攻撃が加えられる状況を仮定
(「田中」さんのコメントより)

なるほど、たしかに「神社参拝を否定する一派が命を狙う可能性」は無しとはしません(私は、その立場に立つムスリムが本当にそこまで過激化し、実際に危害を与える可能性がそれほど高いとは思いませんが…)
それを避けるための方策としては、確かに彼らに”目を付けられる”行動をしなければ避けられますね。アフガンでは女子のための学校、映画や音楽の娯楽提供の場(特に少しセクシーなものなど)などもそれの是非ではなく「とりあえずの危険を避ける」ためにやりたくても避ける人がいるようです。id:Gl17 さんがリンク先のはてブでいう「地雷原は避けろ」論ですね。
 
上に出した「同性カップルの結婚式出席」も、そういう危険回避を第一とするならやはり出席を促したり招待するのは批判されてしまうでしょうね。今は是非はさておき、客観的には地雷原といって良さそうですね。
 
ただ、そういう危険を避けるなら「神社を訪れたことは一切非公開にする」という方法もあるでしょうね。アフガンでも一部の女子教育の学校は、秘密に秘密に運営されているとか。
これは当エントリへのはてブですが

id:inuda_one 「説明と説得によって(中略)という認識に至ることはまったく可能だと思います」 / その認識に至る前になぜわざわざ「昇殿参拝した」とアピールする必要があるんだ、と問われてるんだと思いますが

この懸念も解決できる。
参拝そのものの是非はそれぞれご意見おありでしょうが「まず危険を避けよう」という論点からの反対論に関しては、その非公表化も対案として当然あり得るべき主張だと思いますし、賛同者もいると思います。今後、要望したほうがいいかもしれません。
しかし、そういう勢力への警戒心ってみなさん強いですね。


取り合えず、参拝をカーフィルの所業として物理的な危険を及ぼしてくる勢力の存在を懸念して是非善悪はともかく「危険回避」を最優先させる、という考え方なら、これは理解できます。


ラビア・カーディルさんにヘジャブを着用させろ!!」・・・としたほうがいいかな?

ムスリムの女性は、髪を露出させてはならない」という立場に立つ人たちが、これは確実に一定数存在しています。
あらためてラビア・カーディルさんの写真を見ると、公の場で帽子は被っているものの、後ろの長い髪は露出しているようです。
「カーディルさん、ヘジャブでもチャドルでもなんでもいいですから着用してください。『地雷原を踏まない』ために。」「えっ?」・・・・こうですか。

「踏み絵」で類推すると

id:usi4444さんのリンク先コメントにから

usi4444 2012/05/19 11:13
gryphon氏がやっているのは隠れキリシタンが踏絵を踏んでいるのを見て「キリスト教徒も踏絵を踏んでいるぞ!踏み絵が虐待とは限らんのだ!」と叫んでいるのと同じですな。

えーと、踏み絵でこの状況をたとえると以下がより適切ですね

■幕府や藩の弾圧≒神社参拝は反ムスリム的だ!とする一派の物理的な暴力
キリスト教信仰≒靖国参拝「してもいい」と考えるムスリムと実際の参拝
■庶民「黙って踏めばお咎めもないんだから、踏みなよ」≒「神社参拝は反ムスリムだ!という考えとの摩擦を避けるために、参拝は避けるべきだった」

ねっ、より適切な対応関係にあるでしょ(笑)?
「お咎めなんて割りに会わない。踏み絵なんて、踏んでおけ」の言いかえが「地雷原を避けよ」ですな。「論争の起きているドキュメンタリー映画は上映するな」、とも言い換えられそうです(笑)