INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

大宅壮一賞、候補の1/2が格闘技・プロレスもの(柳澤健・増田俊也)/思い出す「立花隆」の選評とそれへの批判(改訂版)

第43回大宅壮一ノンフィクション賞候補作品決定!
平成24年度)
 
第43回大宅壮一ノンフィクション賞の候補作が決定しました。選考委員会は、きたる4月10日(火)午後5時より、「帝国ホテル」にて開催いたします。
公益財団法人 日本文学振興会

増田俊也
(ますだ・としなり) 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社刊)
三山喬
(みやま・たかし) 『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所刊)
森健
(もり・けん) 『「つなみ」の子どもたち―作文に書かれなかった物語』(文藝春秋刊)
柳澤健
(やなぎさわ・たけし) 『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(文藝春秋刊)
(作者名50音順)


候補作家略歴(以下の年号表記は西暦を使用)

増田俊也
1965年生まれ。愛知県立旭丘高等学校卒業。北海道大学教養部中退。北大柔道部で高専柔道の流れを汲む寝技中心の七帝柔道を経験。四年生の最後の七帝戦を終えて部を引退後すぐに中退届を提出、89年秋北海タイムス社に入社。92年中日新聞社へ移る。2006年「シャトゥーン ヒグマの森」(宝島社)で第五回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し、作家に。雑誌や新聞でノンフィクションや評論などを活発に発表し続けている。

〈作品〉単行本『シャトゥーン ヒグマの森』2007年宝島社刊。雑誌「七帝柔道記」第2部(武道雑誌「月刊秘伝」連載中)「我、石井慧の『覚悟』を問う。」(「ゴング格闘技」2008年12月号)「小田常胤と高専柔道そして七帝柔道」(「月刊秘伝」09年7月号)「木村政彦とは何か?」(「ゴング格闘技」11年8月号。吉田豪との対談)「今、描いてみたいのは女性」(「小説現代」12年2月号)

柳澤健
1960年東京都生まれ。83年慶應義塾大学法学部法律学科卒業。84年7月文藝春秋入社。「週刊文春」「Emma」「スポーツ・グラフィック ナンバー」「CREA」の雑誌編集部および出版局(単行本出版)に在籍。2003年7月文藝春秋退社。以後フリーランス。07年4月「日本レスリングの物語」(「Fight&Life」誌連載)で09年度ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。

〈作品〉『1976年のアントニオ猪木』2007年文藝春秋刊。『1993年の女子プロレス』11年双葉社刊。『日本レスリングの物語』岩波書店12年6月刊行予定

FIGHT&LIFEとかゴン格とかの名前が大宅賞のサイトに躍るとは(笑)


・・・・しかし、隔世の感とはこういうことだな。
かつて、良くも悪くも日本ノンフィクションの中心人物だった男がいた。
その男、立花隆
彼は井田真木子の、今なお伝説のノンフィクションの一本であり、日本語に「心を折る」という表現を付け加えた「プロレス少女伝説」について、受賞に最後まで反対。その後の選評で、以下のように語っている。

プロレス少女伝説 (文春文庫)

プロレス少女伝説 (文春文庫)

私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。そういう世界で何が起きようと、私には全く関心がない。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである

あの時代、プロレス批判者の立花氏も熱かったが、ファンの側も暑苦しかった(笑)。立花氏のもとには多くの抗議・反論が寄せられ、氏は「僕はその前に、昭和天皇の戦争責任も追及していたが、そっちより反論が多かった」と回想している(笑)。



そしてしばらくして・・・わたしが、この議論への反論の決定版と思うのは

に収録された、浅羽通明のコラムである。

(※ここには当初、「それを紹介したいが見つからないので・・・」みたいな文章がありましたが、その後本が見つかりましたので改訂します。)


この文章の、前半要旨を箇条書き
立花隆は話題が「知の欲求」「教養の必要」となると口調が大仰、声高となる。
・立花は「取材や執筆のため資料を読み、勉強するのがどんな遊びより楽しい」と言っている。それは本気だろう。
・しかし彼はそれを「すべての人間が知識欲を持っている。それは基本的な欲求だ」と普遍化する。
・そして彼は、例えば宇宙開発を称揚し「経済的利益があるから宇宙進出しよう、じゃなく『宇宙へ行くのは人間の宿命だ』といえばいい」と主張する。
  
さて、ここからが上のテーマと重なる。
ここから引用。

サル学と女子プロレスを区別する知的根拠とは?

  
「ほとんど人間の本能」「最も根源的な欲求」「人間の宿命」・・・立花のこうした論拠の求め方は、それ自体、一つのパラドックスを孕んでいるように思われる。
 けだし、食欲や性欲が人間の根源的欲求であると、声高に論じる者などいない。そして、誰も論じなくとも、人は日々、モノを食い、異性を求める
しかし、実利を離れて、宇宙の構造だと生命の謎だのに立花隆のごとく好奇心を燃やす者は、ごく少数とは言わないまでも一部でしかなかろう。
 多くの者が、純粋な知的欲求へ向かわずにいる状況、むしろ、であるからこそ、立花はいらだち、声高な訴えを随所で繰り返しているのだろう。
 ひるがえって考えるならば、これ自体が、純粋な知的欲求は人類の根源的欲求で、ほとんど本能に近いなどとはまるでいえないことの何よりの立証ではないか。
とすればーーー。
 一連の声高な口調、大仰な表現は、真理の強調ではなくして、立花の切なる願望を訴えたものと捉えたほうがよろしいだろう。
だが、純粋な知的欲求とは何とも抽象的である。実利に役立たぬ好奇心なら何でも、立花は以上のように賞揚するのだろうか
そうでないことは、彼がこれまた偉く声高なものいいをした十年前の一件でもわかる
  
 「私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。そういう世界で何が起きようと、私には全く関心がない。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである
 
 91年、故・井田真木子の「プロレス少女伝説」に、大宅壮一ノンフィクション賞が授けられたとき、選考委員の中でたったひとり、最後まで反対し続けた立花隆による選評の一説である。
 彼は、この作品が完成度、表現力、構成力に秀でているのを認め、井田の才能を高く評価するといいつつ、ノンフィクションは「何を」書いたかが「いかに」書いたかよりも大切であり、「プロレス〜」は世に伝える価値の無い事実を書いた典型のような作品だとする。その理由を述べたのが、右の一文なのである。
 
 プロレスを一言の下に斬り捨てた右の文章と、ちょうど対照的位置にあるのが『サル学の現在』の前書き冒頭近くにあるこんな文章だ。
 「今、サル学のことを書いているというと、たいていの人が『なんでまたサル学なんかに興味を持ったんですか』と尋ねる。このように問われること自体、私ははなはだ不満である。そのような問いに対して、私はいつも『何でまたサル学に興味が無いんですか』と問い返す。私の理解するところでは、およそ人間というものに興味を持つ知的人間であれば誰であれ、サル学に興味を持たないはずがないのである
 96年6月号の『文芸春秋』掲載「東大生諸君、これが教養である」でも、立花は教養の非実用性を強調する。彼はここでは、本能とか根源的とか宿命とかの表現は用いていない。しかし、立花が提示する教養の定義はこんなものだ。
パンのためには役には立たないが、知的存在者でありたいと思う人がただそれだけの理由で身につけようとするもの…」
 女子プロレスも、サルの生態も、それを職業とする人以外、まずパンの役には立たない点は共通する
 立花は両者を、知的レベルが高ければ熱中するわけがない女子プロレス、知的な人ならば興味を持つに決まっているサル学というように峻別する
 いったい区別する根拠はどこにあるのだろうか
 サル学は立派な「学」であり、京都大学で研究されているからだろうか
 否、立花隆はそこまで低レベルの権威主義者ではないようだ。では……?(後略)

ここから浅羽氏は、立花の本がけっこう通俗的だったり、科学的なふりをして願望をサルなどに投影したりしていることを指摘し、さらに弱点を各種論じている。
そして「事実」「ジャーナリズム」が「思想」「教養」を代行できるか、という大きな問題になっていくのだが、そこまで引用できるもんじゃない。

ただ、「立花隆のプロレス論」に対する反駁…というか矛盾の指摘は、上の文章で足りると思う。