こんな話題が。
http://2chradio.com/arc/mnewsplus1315894389.html
(マドンナが)先日、ファンからあじさいの花をプレゼントされた際、一応「ありがとう」とは言ったものの、直後に「私、あじさいって大っ嫌いなのよね」と発言。切ったはずのマイクが、マドンナの声をとらえていたことで、「失礼すぎる!」と話題になった。(略)マドンナのスポークスマンは、「マドンナはどんな花でも好きになる権利があり、世界中のあじさいの機嫌を損ねる意図はありませんし、世界中のあじさいを愛する人たちの気持ちを軽視するわけでもありません。ただ違う種類の花をより好んでいるだけなのです」と表明。
(略)このたびマドンナ本人による釈明ビデオが公開された。
あじさいの花を愛おしげに抱きかかえるマドンナ。悲しげな音楽が流れ始め、まるで映画のような映像には、字幕が添えられている。
(略)
「やっぱり、あじさいなんて今でも嫌いよ!きっとこれからも、いつでも嫌い!」
マドンナは、叫びながら、あじさいを床に投げつけた。驚愕である。
また、それだけでなく「ここは自由の国よ。私はバラが好きなの!」と、あじさいを踏みつけた。
そのブクマにも付けたのだが、かつて父親のほうのジョージ・ブッシュは「私は宣言する。ブロッコリーが嫌いだ!少年時代には母親にムリに食わせられたが、いまや合衆国の最高権力者として拒否する」と演説したことがある。
マドンナも父ブッシュも、嫌いなものは嫌いでいいと思うのだが、そこで思うのは「嫌いなものは嫌いです」というのは、どこからして認められるべき主張で、どこから駄目なのだろうか?という話でした。もっとも今回の「嫌いだ」というのは非公式発言のつもりがうっかり漏れてしまった、というだけの話ですけどね。
http://www.47news.jp/CN/200905/CN2009051301000675.html
「結婚は男女ですべきだ」 米ミスコン発言が波紋
【ニューヨーク13日共同】米国で同性婚に反対する発言をした「ミス・カリフォルニア」の女性(21)・・・(略)カリフォルニア州サンディエゴ出身のキャリー・プレジャンさん。4月19日に行われた「ミスUSA」最終審査で、男性審査員に同性婚に対する考え方を尋ねられ、「米国人が同性婚を選択できることは素晴らしいが、結婚は男女間ですべきだ。わたしはそう育てられた」と返答。テレビ中継された会場に拍手とブーイングが交じった。審査の結果、惜しくも優勝は逃したが、この発言さえなければ勝っていたとの見方がもっぱら。米国では最近、同性婚合法化の動きが広がっており、男性審査員は賛成の立場・・・
結局最後は、ミスカリフォルニアの称号はイベント欠席などの理由で剥奪されたという。
【追記】1例追加。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20041015/p1
同性愛批判: EU次期副委員長候補が発言、大もめに
【ブリュッセル福原直樹】欧州連合(EU)の「内閣」である欧州委員会の次期副委員長候補が、宗教上の理由から「同性愛は罪だ」などと発言したため、欧州議会が「不適任だ」と異例の判断を行い、大もめになっている・・・・
この候補はイタリアのEU政策相・ブティリョネ氏。(略)ローマ法王と親しく、熱心なカトリック教徒でもある同氏は、同性愛を否定。・・・(略)同議会の市民権委員会は11日、小差で同氏を不適任と判断。だが、伊のベルルスコーニ首相は「宗教的信条への挑戦だ」、本人も「良心は売らない」と反発するなど、一歩も譲らない構えだ・・・
毎日新聞 2004年10月13日 20時56分
今年1月、話題になったtogetterがある。
■「放浪息子」をめぐるホモフォビア(同性愛嫌悪)
http://togetter.com/li/92256
個別の発言者の何気ない一言が、言説実践として機能し、差別そのものを再生産することとなる。「単に番組の感想を述べているだけ」とか、「嫌いなことを表明しているだけ」といった意見は、「これは個人の意図を表明しているだけだから、差別はしていない」という信念を表明している。
「嫌いなものを嫌いと言ってなにが悪い」という言い方は、自分の意見は単なる感情の表出にすぎない、と言っているわけだが、それが他者の尊厳や人格に絡む発言である以上、その発言は単なる表出ではなく表現として考えられなければならない。こうした発言の道徳性をどう考えるか、という問題なのです。
(※繰り返すが、マドンナは当初、自分の嫌悪感を公にするつもりは無かったのにミスで皆に知られてしまった、という違いがあることには注意。でもひらきなおりのビデオのほうには通ずるか)
さらに言うと、差別というのは平等に「扱わない」ことに問題がある、というかそれ以上を追求すると「内心の自由」と抵触する。
だから、たとえばアメリカの片田舎にこういう店主がいたとする。
(誰かと雑談しながら)
「おれはイスラム教が大っ嫌いだね!あんな教えは鼻持ちならんよ、笑っちゃうぜ」
(・・・一見して中東系で、イスラム教徒と分かるいでたちや物をもった人が来店)
「いらっしゃいませ…それで話の続きだが、あの阿呆なイスラム教は…」
(客、かごをレジに)
「ありがとうございます。全部で14ドル82セント…はい18セントのおつりね。このリンゴはサービス!お持ちください」
(雑談の相手「おまえ、イスラム嫌いじゃなかったか?」)
「その通り、大っ嫌いだよ?ただそれは単なる俺の好き嫌いであって、商売はフェアにやるのが俺の信念だ」
・・・これは真っ当な態度……なのかな…??という話、である。
同性愛に否定的な感情・意見を示す「ホモフォビア」は、セム系一神教の系統に多い、同性愛への否定的教義に基づいてそれを非とする主張も含む。
少なくとも日本版のウィキペディアではそうなっている。なぜそうなっているかというと俺がそう付け加えたからだというトートロジーなんだが(笑)、いや、しかしそういう主張があったから、そうしたのであります。
てなわけで、同性愛者と平等に接し、その権利を擁護しつつも「私の信仰する宗教に基づいて、”私は”同性愛を否定する」「自身の好き嫌いとして、同性愛を描いた物語は好まない」的な主張者はホモフォビアか。
実はオランダにおける反イスラムの潮流のひとつに、上の「 」のような主張をしているのがイスラム(の一部過激主義)だから、そういう価値観を排除せよ!てな主張があるんだよねーー。
■欧州の反イスラム(右翼)運動に地殻変動・・・「僕らは寛容だ、だから非寛容のイスラムは敵だ」
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20061119#p4
(※リンク先間違ってた。9月21日修正)
そうなってくると、第二段階として、格闘技ブログ運営者の私は「マーシャルアーツフォビア(格闘技嫌悪)」という概念をでっちあ・・・いや創唱するのですよ。格闘技を野蛮だ暴力だと主張する人ってけっこういるでしょ。実際に同性愛と同様、「それは神が禁じている」と、宗教的教義に基づいて拒否している一派もいる。
(その宗派は一般論として、かなりカルト的色彩が強い)
神戸高専剣道実技拒否事件という判例も出ている。
ただし、新旧約聖書やらクルアーン(コーラン)に基づいて同性愛を拒否、否定的評価をするのが「ホモフォビア」として逆に批判されるのなら、「彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない」という聖書の記述を根拠に武道を否定する勢力を「マーシャルアーツフォビア」として批判するのも同じ理が働くと思われる。
来年、2012年度からは中学校で武道が必修化され、上の一派はこぞって拒否をすると思われる。
最高裁判例まで出ているから、全国的に代替措置が取られるとは思うが、おろかなフォビアはフォビアである(上から書いた論理がひとつながりになるなら)。その悪質にして野蛮・偏狭・不寛容な「マーシャルアーツフォビア」に対して批判しようと思うので、そのときは加勢よろしく。
マドンナも「あじさいフォビア」をなんとかしなさい。
思い出したが、俺はまんじゅうフォビアでもある。特にくりまんじゅうフォビア。
【追記】(1)書いてる途中で思いつき、また書いてる途中で忘れて(笑)結局最初は書き漏らしたのだが、あの「韓流にうんざり」てな発言をした高岡…忘れた、検索…高岡蒼甫の話もこの議論なら視野に入ってくるのか。
(2)学校授業の武道必修化は、この議論の中では対極に置いた”(宗教的)マーシャルアーツフォビア”を想定しての議論をしているが、それ自体の問題点は、はてなの中でも結構たくさん指摘しているほうだと思うよ。
このブログ内を「武道必修化」で検索した結果をちょっと見てください