あっ、なんかどこぞの新書に使えそうな題名&コンセプトだな(笑)。ひところ、ゴマブックスなんかで「●●が●●●される日」という未来予測シミュレーションがはやったことがあって、落合信彦はこのへんから出てきた。
で、岩波論の続きとしたいが、ときどき一休みします。
二度寝するから(笑)
いや、でもまあだらだら続けますよ。ちなみに出版業界の内部事情はほとんど知らないので、詳しい方の指摘を受けて修正していきたい。
「岩波包囲網」とは?
これは俺が勝手に言ってるだけだが・・・岩波のイメージ、得意分野、強み、収入源ってなんだろう?となるとこう並べられる。
・岩波文庫
・岩波新書
・それと被るが、日本の昔の大家の古典
・世界の、いわゆる「名作」古典
・辞書、特に「広辞苑」
・「書店買い切り制」による低リスク
まだブックレットとか、いろいろあるんだろうけどとりあえずね。
で、今、上にあげたやつってトレンドとしては相当厳しいでしょう。
青空文庫のゲリラ戦
まず名作古典だが、昨日挙げた「青空文庫」がある。
6500作品無料配布作戦に関してはこちら。
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/10/26/17318.html
そもそも青空文庫って何ぞや?はこちら
http://www.aozora.gr.jp/guide/nyuumon.html
俺もまだ、結局は紙世代で、読むには文庫のほうがいいと思っている。
だが、古典っていま、引用とか研究のために使うことも多いんだよね。そういうときはPC上なら検索機能もあるわけで、どっちが便利かは論を待たない。
また、ウチも中島敦「名人伝」や芥川龍之介の短編などを引用しているが、ブログにエントリーするときも青空文庫のほうが便利だ。
いくら意義があるとはいえ、やっぱり従来の出版社が、あまり好意的に捉えないよねえ。そして、やっぱりつっぱり、これで本来だったら売れていた岩波文庫が売れなくなった、うべかりしえべかりし利益を喪失した・・・という部分はもう断言しましょう、確実にある。
すくなくともその実例一例が、今キーボードを叩いている(笑)。
次々「新訳」。海外の名作、パイの奪い合い。
くしくも昨日、朝日新聞は広告がらみのだったかな?三ページにもわたる「海外名作の新訳特集」を行っていた。
いや、最近の新訳はすごいよ。
岩波もその流れが分かっていて、ドン・キホーテを自社で新訳し、評判になっているが、たとえば「カラマーゾフの兄弟」。
はてなでは新潮文庫が紹介されているが、岩波書店も米川正夫訳で全4冊を出している。
しかし現在、何を考えているのか、あの光文社がそれの新翻訳を出した。
そして大評判を取っている。
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2007/07/20070729ddm015070084000c.html
◇『カラマーゾフの兄弟 全4巻+エピローグ別巻』
(光文社古典新訳文庫・660〜1080円)
◇画期的新訳で名作が「現代文学」になった
何やら信じがたいことが起こっている。新訳版『カラマーゾフの兄弟』が爆発的な(というのはちょっと大げさだとしても)売れ行きを示しており、全五巻のトータルがもう二十五万部にも達したというのだ。『カラマーゾフの兄弟』といえば、重厚長大なロシア文学のうっそうたる森の中の近寄りがたい大木、名前だけは聞いたことがあっても長すぎて読み通せない、敬して遠ざけられる古典の代表格である。いまから考えてみると、亀山氏による新訳が出る少し前から兆候らしきものはあった・・・
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2006/10/20061008ddm015070002000c.html
外国文学や古典の翻訳と歳月の関係性は、ファッションの流行[はや]りすたりにちょっと似ている。たとえば、六本木あたりで催されるオペラのガラコンサートに鹿鳴館時代のドレスで出かけるのは、かなり勇気がいる行為だろう。もちろん、それがかえって格好良さと受け取られるケースもあるだろうが、やはり大多数の人は異様な風景だと考えるにちがいない。
翻訳の場合も、かつて一世を風靡[ふうび]した名訳が、時の流れ、言葉の移り変わりの中で古びた、近寄りがたい存在に変じてしまうことはままある。新訳を刊行する意義というのは、そんな風に近づきがたくなってしまった作品を、もう一度人々の手元に引き寄せることにあるのだ。
この九月に創刊された「光文社古典新訳文庫」は、そうした役割を意識しつつ、さらに刺激的な工夫を凝らした好企画である。その美点を、三つほど挙げてみよう・・・
つづく。