ホントはこっちのほうを書くべきだったのに、ついつい上の話に熱が入りました。
ヒョードルvsミルコにも匹敵する、さんまvs松本に際し、この書を紐解きたい。
そう、「2002年以降、全てのテレビ論は彼女のコラムの注釈に過ぎない」ことナンシー関の文章だ。
- 作者: ナンシー関
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1999/05
- メディア: 文庫
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明石家さんまという人は、本当に自分のことしかない芸人である。自分の面白さと番組の面白さは、完全に正比例するというよりも純粋にイコールであると信じて疑わない人である。それは誰と共演しようとまったく変わらない。
(略)明石家さんまにとって、共演者は道具なのである。(略)『さんまのまんま』を見ていてもそうである。さんまにとっていいゲストというのは、ランクの高いタレントでもなければいい話を聞かせてくれるタレントでもなく、自分の面白さを発揮できた時のゲストである。
自分がおもしろくテレビに映る、という目的のためなら何でも切り捨てるし何でも拾い上げる。外国人、子供、素人OL、先輩タレント、若手タレントとあらゆるところと対しているが、全部同じ意味なのである。
千のネタを持つ、輝き続ける大阪の太陽。
カンヌ映画祭に招待された新人監督ですら、「道具」としてしまうのだろうか。
これに対し・・・・次回に続く。
しかし、写しているだけでナンシーの妖刀の切れ味をひしひしと感じる。