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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

船橋洋一氏が、英語の重要性と、その半面の「適当な使い方のススメ」を語る

週刊朝日連載「世界ブリーフィング」で書いた文章(資料)。

世界ブリーフィング―同時代の解き方

世界ブリーフィング―同時代の解き方

(この本じゃないな。その後に出たものか)


連載456
1999年4月2日号
グローバル言語「英語」を家畜として飼う

 英語ほど便利な言葉はないが、英語ほど不愉快な言葉もない。

 そう感じる人も多いだろう。

 デファクト(事実上)の世界言語となってしまったから、それを使いこなすことができれば世界どこへ行っても不自由しない。しかし、非英語国民がどんなにがんばっても英語国民にかなうわけはないから、不公平感はつねに残る。

 英語は世界共通語としては、新参者である。が、その成長はすさまじい。

 第一次世界大戦以後、英語はフランス語と並んで国際言語となった。米国の国際政治での台頭と歩調を合わせて、英語も国際言語となってきた。第二次世界大戦後は、名実ともに世界言語への一歩を歩みだした。

 それが一九九〇年代、グローバリゼーションのうねりのなかで、世界言語として登場してきた。英語は外国語ではなく、国際語であり、世界語となりつつある。

 インターネットがそれをさらに突き動かしている。インターネットをフルに活用するには、英語をモノにしなければならない。

 かつては、英語を英米の世界文化支配のための道具であり、英語帝国主義打倒せよ、といったスローガンまでが聞かれた。

 マハトマ・ガンジーは「何百万という人々に英語を与えることは彼らを奴隷にすることだ」と言ったことがある。

 しかし、いま、例えばインド系の作家、サルマン・ラシュディは「かつて第三世界と呼ばれていたところの知識人は、英語を家畜を飼うように使い、英語を作り替えている。英語へのコンプレックスなしに、英語にもっとリラックスして接している」と語っている。南アフリカの作家、ハリー・マシャベラは「英語は究極のところ、世界のさまざまなアイデアに慣れ親しみ、世界の人々の経験をシェアするために必要なのだ」と述べている。

 英語は英国や米国が直接支配・統治したところの征服言語という観念も成り立たなくなっている。

 アルジェリアは九六年、フランス語に代えて英語を学校で教える第一外国語とした。

 また同年、北イ^リアのパダーニャでイタリアからの分離の動きが盛んになったとき、分離運動のリーダーたちは「分離したら、イタリア語ではなく英語を共通言語としよう」と提案した。

 欧州自由貿易協定の締結各国の実際に使う言葉は英語である。フランクフルトに生まれた欧州中央銀行(ECB)の建物に入ると、まず聞こえるのは間違いなく英語である。ここのエコノミスト集団は、ほとんど例外なく米国で教育を受け、学位を取った英語人である。欧州統合は実は欧州の英語化の流れでもある。

 英語の強さは、かつてのラテン語のような知識エリート層の独占物ではなく、一般大衆まで浸透した民主的な流れに乗って、浸透していることである。それはまず、何よりも実務家の言葉だ。

 たとえば、緊急事態発生の際、使われる用語はSOSをはじめ英語が主体である。これはEmergency speak(緊急言語)と呼ばれている。

 空飛ぶ飛行機と管制塔との間の交信もまた通常は英語である。これはAir speak(航空言語)といわれる。

 船舶の航海上の通信も英語である。Sea speak(海上言語)だ。

 緊急のときや、空や海を渡っているときの言葉が英語であるというのは、英語の強さである。命を託す言葉が英語なら、英語の勉強も命がけとなっておかしくない。

 ところで、日本である。

 なぜ、日本人の英語はこうまでダメなのか。うんざりするほど繰り返してきたテーマだし、私もこの欄で何度か取り上げたから、ここはあまり立ち入らない。

 ただ、最近になってこの状況がさらに悪化していることだけは指摘したい。

 私の知人のある大学の理事長は、英語教育を強化しようと再三にわたって改革案を示したが、それは当の英語教師たちによって拒否されてしまうとこぼしていた。「英語教師は英語教師に徹してもらう、べつに英文学史や英国中世文学論などをやってもらう必要はない、学生に英語をしっかりと教えてもらえばいい」との考えを実現しようとするのだが、英語教師は「われわれを一介の英語教師扱いするのか」と不満だという。

 最近は女子短大で英語を専攻しようとする希望者が減り、代わりに家政学志望が増える傾向にある。そのため「英語学科」を「文化コミュニケーション学科」など装いも新たに売り込みに必死だが、羊頭狗肉を見透かされ、パッとしない。

「それはそうでしょう。彼女たちは英語でe‐mailを書いて海外と文通したいのに、シェークスピアの解釈うんぬんなどとやられても、そんな授業、取るはずないですよ」と彼は言う。

 日本の英語教育の問題の根は深く、単に英語教師を血祭りに上げてすむ問題ではない。にもかかわらず、英語教師の中から日本の英語教育の一大変革運動が起こらないのはどうしたことだろう。

 このままでは、日本は世界の英語孤児になる。英語は英語教師に預けるにはあまりにも重要な、いや国家戦略的なテーマでありすぎる。

 次の一世紀、英語はグローバル言語となる可能性が強い。

 いったんそれが生まれると、それは半永久的にグローバル言語として君臨する可能性が強い。

 ラテン語がフランス語やイタリア語やスペイン語に枝分かれしたように、英語も分化、散乱していく可能性もないではない。しかし、グローバリゼーションがそれを阻むだろう。むしろNHK的日本語標準語のような均質的なグローバル英語がメディアによって広められるだろう。

 それに、それを使う人間の数が増えれば増えるほど、他の言語が英語に挑戦するのは難しくなるだろう。それを変えたくない人々が世界の圧倒的多数となり、世界の実務を支配するためだ。グローバリゼーションはその不可逆性を推し進める点で、恐ろしいうねりでもあるのだ。

 英語をのさばらせることは、それによって有利になる連中と不利になる連中がいる? そんなことはわかりきっている。それを不公平だと言うなら、世の中、不公平そのものだと思ったほうがよい。

 それよりそんな愚痴を言っているひまがあるなら、それをまず英語で言ってみたらどうか。英語を使いきって、相手を批判する楽しみを味わおう。そうやって英語で遊んで、英語をおもちゃにして、英語をこき使って、英語を僕(しもべ)にして、英語を家畜にしよう。