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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

須藤元気、パンクラス辞めた直後のことを回想。「圧力で試合に出られませんでした」

マルチポスト

http://blog.livedoor.jp/nhbnews/archives/50650621.html

FEG/K1 & HERO'S 】 須藤が回想「大団体への移籍を陰で画策してた」「所属団体の圧力で試合できず」 < Gryphon
http日本経済新聞11月12日
日本経済新聞 SUNDAY NIKKEI面に「マイバランス」というインタビュー欄があり、須藤元気が登場しています。
最初は「高校で人生設計をし、格闘技で名を売って芸能活動を」と考えていた、道場の雑務よりアメリカからの逆輸入を考えた、などのおなじみの話ですが、その後をこう回想しています

「首尾良くデビューを果たし、大きな団体への移籍を陰で画策していたときのこと。交通事故に遭い意識を失うほどの重症を負いました。
所属団体からの圧力もあり、試合に出られなくなると、人々は急に冷淡になり離れていった。結局は自分と同様、周囲も打算的にしか付き合ってくれなかったのです」


この「所属団体」とは時期を考えるとパンクラスであり、少なくとも須藤元気選手自身は、2000年代初頭のブランクを「パンクラスの圧力」と考えているようです。


【参考】紙プロのインタビューで以前、元気は「パンクラスさんとはちょっといろいろありまして」と言葉を濁す。

【参考2】須藤元気「幸福論」には、「パンクラス」の話がほとんどでてきません。

幸福論

幸福論


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1. ロビン 2006年11月12日 23:13
打算的な生き方をしてたら、打算的にしか扱われないって事が言いたいのかな?


3. Gryphon 2006年11月12日 23:45
>1
後半部分は略しましたが、結論はそう。
一応続きも紹介すると

「それを機に自分を見つめなおしました。利己心を抑え、他者に施すよう心がけたら今度は『K−1』への出場をはじめ金や仕事が自然に集まりはじめた。今ではやりたいことを楽しむ余裕があります・・・」


個人的には、須藤元気の自伝で一番読みたかったのは、このパンクラスからの「大脱走」の経緯だったのに、ここをネグレクトした幸福論はしょっぱすぎる。今の本も。

次は必ず、「港区南麻布の あの会社と 決別する方法」を書くように。


「すいません、この本予約したいんですけど」
「はっ、あなたは近○さん?」


まあいい。話を先に進めよう(高田総統調)。
結果的には、PRIDE武士道やHERO'Sがある時期まで、タメをつくっていたのは正解だろうし、また本人がUFCやリングスといった場所でも順調に評価を上げたこと、大勝負であるK-1MAXで、負けても評価を得られる戦いぶりを見せたという本人の凄さにあるのである。たとえば、この記事でもおなじみの

「日本で道場に入ると頭を丸めさせられ、炊事や掃除に負われる。ならばと渡米を決意、向こうで修行を積み『逆輸入ファイター』の触れ込みでデビューしようと・・・・」


で、動機はともかくこの問題意識はもはや「正解」であると言ってもいいわけだな。
しかし、1999年、2000年にはそれなりの準メジャー(というかその程度しかない)だったパンクラスで満足せず、「大きな団体への移籍を陰で画策」していた男の野心はすごい。「道場預かり」なるアレはそういう駆け引きの結果だったのかな。



そして、須藤の認識が本当なら、パンクラスが他の団体に圧力をかけて参戦できなくするぐらいの影響が当時はあったというのがすごい(笑)。当時でいうと社長同士が対立していたリングスには影響は及ぼせないだろうし、佐伯繁氏との関係があるDEEPかな?PRIDEとの友好関係ができるのは菊田早苗が参戦した2002年だったが、それまではそれを見越して好意的中立だったたってことだろうか。
いまや、MARSにすら圧力は及ばないのであります(笑)。でも野地竜太の活動の不活発さはこのへんに由来するのかな?


で、今は須藤元気は「利己心を抑えている」んだって。そう本人が言っている。