「断」という日替わり筆者交代コラム。
4月21日、山口組の歴代組長の法要が比叡山で行われていたことを、つい先日各紙が報道した。全部が全部、非難めいた調子でである。
私は、当然、保守派の論客たちが一斉にこうした報道姿勢を批判するはずだと思った。しかし、本稿を書いている時点で、誰もが口をつぐんでいる。あーあ、情けないね。
暴力団が、組長だろうと三下だろうと、仲間の法要をするのにどんなまずいことがあろうか。山口組の組長のうち、死刑で死んだ人は一人もいないはずだし、仮に刑死者がいたとしても、その法要には何の問題もない。比叡山川だって、そうだ。どんな死者だって供養・法要してこそ仏教ではないか。法要料が600万円もしたとか、香典として数千万円もの金を集めたとかの批判もあるが、それは金の掛かりすぎる「葬式仏教」への批判ではありえても、暴力団員の葬儀・法要をすることへの批判にはならぬ。
私が保守派の沈黙を慨嘆するのは、靖国神社の戦犯刑死者合祀問題と関係するからだ。首相の靖国公式参拝に対する支那(註:この用法については同氏の著書「サルの正義」参照)や南北朝鮮からの批判に対し、死者は世俗の評価とは別にひとしなみに祀るのが神道の流儀だと反論していたのは打だったのか。自分に都合が悪くなるとダンマリでは、同じことをしている左翼・革新派を笑えまい。
念のため付言すると、私は、暴力団組長と戦犯刑死社を同価値だといっているのではない。宗教上、死者の霊は同価値だと言っているだけだ。また、首相の靖国公式参拝に憲法上疑義が無いとも考えてもいない。憲法判断を外国にされるのは内政干渉だと思うだけだ。