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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

浅羽通明が「国家の罠」を論ず(メールマガジン「流行神」より)

放送中の上記ドラマを横目で見ながら、2月ほど前に送られてきた「流行神」における、浅羽通明氏の「国家の罠」評を少々引用しよう。なぜこれがつながるかというのは、上のリンクに飛んでもらえれば分かる。

握手しない男たちの眩しい協働−−「国家の罠」を読む

「インパーソナル」というキーワードを、花田清輝という特異な左翼評論化が晩年、好んで用いた。日本「世間」にフィットした情緒的名、しかし資本制的(金がらみ)でもない関係。そんな意味であろうか?(略)
こうした爽やかで緊張感みなぎる関係は、現体制状下では情緒的、社会権系的に敵対関係にある者同士の間で生じるとき、より眩しいものとならないだろうか?(略)
浅羽が脳裏に浮かべていたのは、宮崎駿監督往年の名画、・・・「ルパン三世カリオストロの城」だった。協働するのは当然、ルパンと銭形警部だ。・・・二人は宿命のライバルである。
だが巨悪カリオストロ伯爵を滅ぼす大作戦は、両者の協働によってしか成功し得ない。しかし、泥棒と刑事の作戦遂行目的は、最後まで異なって交錯はしない。・・・双方は奇妙な共感は漂っているものの敵対関係と感情は遂に変わらない。

ここで引用者申す。
浅羽氏は、政治や文化、歴史の大状況を論じるときの引用材料に漫画やアニメ、SFなどのエンターテインメントを、またその逆方向をも自由自在に使いこなすということを、かなり初期にはじめた一人だ。だからこそ「日東駒専向けの評論家」とか「リハビリ用思想家」などと自称するわけだね。
これに分かりやすいと拍手するか、軽薄短小なりと苦笑やブーイングを飛ばすかはその人次第だが、とりあえずエピゴーネンのハクシレといっていい小生も、だいたいこんな風なテイストで、ここのブログをやってます。
閑話休題

・・・佐藤優国家の罠」の面白さは、クライマックスでこうしたインパーソナルな協働関係が火花を散らすような緊張のなかで成立する鮮やかな一瞬を描いたところにある。
・・・ロシア通異能外交官佐藤が、・・・政争に巻き込まれ、罠に落ちて・・・「国策捜査」の対象にされてしまう。権力がそうと決めて動く以上、彼にはおとなしくしたがって刑に服し、早めに第二の人生を覚悟する他、選ぶ途はないはずだ。
だが、佐藤優は無条件降伏だけは拒み、ある一点を闘い取ろうとする。・・・・対する検事西村も、幸か不幸か事務的仕事人間ではなく、・・・一定の条件での連係プレーを成立させる案に同意する。かくして検察取調べはまばゆく花が散る「協働作業」となった。ルパンと銭形同様、二人も最後まで握手はしない・・・

私が頭の中で組み立てていた感想と、やや被る部分もあるし、大きく越える所も当然ある。
国家の罠」をそこに含まれる時事政策や歴史的意義を除き、ひとつの「ドラマ」として抽出するとすれば、一番スリリングでしかも美しく感じられるのは、浅羽通明氏のいうように、本来敵対関係のなかにある人々が、プロフェッショナルな矜持と共に何かの心を通じさせる、という部分だというのは、薄々と感じてはいたが、こうはっきりとその部分を、かも先を越されてピックアップされたので白旗を揚げるしかないだろう。

悔しいので蛇足を描くとすると、これは刑事ドラマの定番でもあるし(頑固な州警察の老刑事とスマートなFBI、とか若手とベテランとか。)逆に「手錠のままの脱獄」のように、(肌の合わない)悪党同士が協力するというパターンもある。「うしおととら」も作者の藤田和日郎が、この種のドラマが好きなために一人と一匹の主人公の関係ができあがったと言っているはず
ただ、これらは外形的には協力するお膳立てが整っているんでやや違うが。




一番似ているのを思い出して見ると・・・あった。村上もとか「龍」。

龍 38 (ビッグコミックス)

龍 38 (ビッグコミックス)

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第一巻か二巻で朝鮮人との親密な交際を問われた龍は
「君は朝鮮人が好きか?」と特高の日影氏に問われ、

「私には嫌いな民族などおりません!」と断言、
返す刀で「あなたはどうですか?」と問う。

特高の日影は「そうだな・・・好きというには余りにも深く彼らと関わり過ぎたが・・・」
と煙草をくゆらせ、目をつぶる・・・そして一言。
「好きのが一人だけいる。安重根だ!
(註:記憶に頼って書いているので、細部の違いはご容赦)

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ここで先回りしていうと、「龍」は教条的な、いわゆる左翼的な作品ではまったくない。むしろ小学館漫画賞受賞時に「戦前の日本人は悪い悪いといわれるが、本当にそうだろうか?というのがモチーフだ」という意味のことを言っている。
といいますか、元々安重根を一人の「侠」(←ここに「義士」や「壮士」と入れると、またもや両側からいろいろ言われるので、考えた末にこの語を用いた)として敬意を払うのは、実はスタンダードでもある。
野村秋介もそうしたし、そもそも藤岡信勝氏の「自由主義史観研究会」も最初の「教科書が教えない歴史」にそう書いた。


これは漫画「龍」がそうである以上に、史実もそうである。
つまりは、安のやったことが結果的に韓国の未来にプラスであったか短絡行動のマイナスであったか、またあれはテロか義挙かも、ある意味どうでもいいわけである。
要は獄に在って、警吏や取調官という国家を背負った人々に対しても、いかに凛として屹立しうるか。
この場合の偉大さや愚劣さは、行ったことの愚劣さや崇高さとはまた別物なのだ。


そして安は、間違いなく獄にあって、監獄の長や看守までを感服させる気高さを見せた。
私はその看守が後に帰国、仏門に入って安の碑を建てて弔った、その寺を訪れたことがある。「為国献身軍人本分」−。彼の絶筆が、その碑には刻まれていた。

このへんのことは、「君たちはどう生きるか」で虜囚となって流されていくナポレオンがなおも持つ威厳、ということを書いているのと同様だ。


実は今まったくのアドリブで、着地点を決めずに書いていたのだが、奇しくも浅羽話から
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20051011#p3

そこのリンク先である
http://www.jp.piko.to/

とつながったようなつながらないような。