http://www.sankei-kansai.com/2009/12/23/20091223-018568.php
台湾女性議員を告訴へ 靖国神社で過激デモ
靖国神社(東京都千代田区)で今夏、デモ隊を組織して過激な抗議活動を繰り広げた台湾の高金素梅・立法委員(国会議員)に対し、旧日本軍人や元衆院議員ら4人が、礼拝所不敬や説教等妨害、威力業務妨害、傷害などの罪で28日に東京地検に告訴・告発する。代理人弁護士は「国のために尊い命をささげた戦没者に崇敬の念を抱く日本人の宗教的感情を侵害した不敬行為だ」としている。
告訴・告発するのは、旧日本軍人で特務機関員を務めた門脇朝秀氏(95)のほか、元衆院議員、西村真悟氏▽元大阪府八尾市議、三宅博氏▽東京都議、古賀俊昭氏。
告訴・告発状によると、高金委員は8月11日朝、靖国神社境内で台湾先住民ら約50人のデモ隊を引率し、「靖国ノー」「先祖の霊を返せ」と拡声器で連呼しながら行進。デモ隊メンバーは拝殿に上がり、さくを押し倒して土足で奥の間に入り込んだ。これを制止しようとした神社職員らともみ合いになり、押し倒すなどして数人に打撲などの軽傷を負わせたとしている。
この時の映像があればいいんだが。
【追記】ありました
![この動画を含む日記 D](http://d.hatena.ne.jp/images/d_entry.gif)
流れるコメントはひどいものが多い。
告訴されたからって検察が起訴するかどうかは分からないし、怪我の詳細などもわからん。そちらはあとで資料が無いか調べてみるが告発対象に、懐かしい「高金素梅」という名前が出てきた。
「耶律阿保機 」とか「完顔阿骨打」という名前を教科書で見たときのインパクト(まあ「卑弥呼」だって同様の当て字だが)のように、なんか覚えてしまうのと、なんか「素梅」っておいしそうな名前だったという印象もあるのだが、それより何より、彼女(女性です)はかつて、彼女にとっては”邪神の神殿”であろうヤスクニにおいて、サイキックウォーズを展開したということで、このブログで紹介している。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20050813#p3
■靖国参拝−−平和を呼ぶ「サイキック・ウォーズ」?
いや面白いなあ。ブログの考察も面白いが(自画自賛)、彼女がかつて行ったことが面白い(笑)
高金素梅氏は地裁で提訴する時、靖国神社へきた。抗議にきたのは分っていたが、せっかくきたので丁重に迎え、お話を伺った。「自分の縁者の祭神を下ろしてほしい。持ち帰りたい」というので断った。
「自分の民族の方法で(魂を)持って帰っていいか」と聞くので、「それで気が済むなら結構」と答えた。そこで高金素梅氏は5分間祈った。
宗教の違いは認める。高金素梅氏は持って帰ったつもりだ。
しかし神社の信仰では「持ち帰れない」。
いや、平和でいいなあと(笑)。だから、これで終われば良かったのにね。
すべての宗教の原則として。
ささげもの
1942年12月8日、ファティマの予言の一部実現を記念して、ローマ教皇ピオ12世は全人類を聖母マリアの聖心に奉献した。私も人類の一員だが、まさか自分がマリア様にささげられていたとは知らなかった。だからといって、私は教皇に抗議するつもりはない。
またキリスト教では、イエスは全人類の罪をあがなうために十字架にかかって死んだと説いている。私はキリストに身代わりをたのんだ覚えはないが、キリストを訴えようとは思わない。それがキリスト教の教義だということを知っているからである。宗教のドグマに他の宗教は介入できない。
(佐伯真光談)
もひとつの原則
「わたしはAをやる」と「あなたにBをやらせる・あなたがAをやることを禁じる」では、当然前者より、後者のほうがハードルが高くなるのである。
繰り返しますよ。「証明不可能・相互無視」。これでいきましょう。地上の平和のために。
なに、どれが正しいかは本人が死んだときにあっちで自動的に分かりますわ(笑)
そう、賢者ナータンが語る三つの指輪の寓話のように。
ナータンは、ある一つの事件をきっかけに、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教のうち真の宗教はどれかという難問を突きつけられる。
ナータンは、3つの指輪の寓話を語ることになる。
「ある国の王家にひとつの指輪が受け継がれている。持ち主は、指輪の不思議な力によって神にも人にも愛されるようになるという。3人の息子をもつ王は、誰に指輪をゆずるべきか悩んだ。密かに精巧な模造指輪を2つ作らせた。王は、本物と模造物あわせて3つの指輪を、3人の息子に分け与えた。息子たちはどれが本物なのかをめぐり争うが、模造の指輪があまりにも精巧に作られていたので、父親自身にもどれが本物なのかわからない。裁判官は争う3人の息子に対し、判決を言い渡す。判決内容は、父親が3人を分け隔てなく愛して与えた指輪の中に真偽の区別はもはやなく、それぞれが本物であること、そして指輪が本物であるかどうかは、いずれ持ち主が神にも人間にも愛されるかどうかを見ればわかるのだ、というものであった。」