
週刊漫画times2025年11月7,14日合併号…いや漫画「海賊×少女」第13話と記録したほうが後日わかりやすいか。
この作品についての紹介&第一話リンクはこちら
m-dojo.hatenadiary.com
メモ代わりに記録しておきたいことは画像とタイトルの通り。皇子の名前はテイポヌ。ウスハル・ハーン(17代天元帝)の次男、とあるな。
別のページに書いてあるが、琉球に送ったはず…なんだが琉球の方にはそういう記録がない。つまり、航海の途中で流されてしまったのではないか、と。
それをもとにこの漫画では、ある島にテイポヌの末裔が……みたいな設定となっておる。
で、ウィキペディアには
ウスハル・ハーン(17代天元帝)の記述はあるが、
ja.wikipedia.org
次男テイポヌなんて記述は影も形もない。(※これについては後述)
漫画であるからフィクションであってもそりゃいいんだが、「明実録にある」と書いてあるなら、調べなくてもやっぱり記述がそこにはあるんだろう、と信じてしまう。
空手バカ一代、男の星座の「エド・サリバン・ショーのフィルム」や「池袋警察署にはまだ記録が残っているはずである___」で懲りてないんかよ(笑)

ま、それ以上は調べる能力も意欲も無い。
だれか詳しい人に、「元の天元帝の次男が朱元璋につかまったものの助命され、琉球に流された(ただし到着しなかった)なんて話があるんでしょうか?てか、これ創作?」と問いかけるだけ。
情報入って来ました。「地保奴(ディポド)」という表記でウィキペディアに
https://t.co/060VJsQPhL
— 三宅秀道 (@hidemichimiyake) October 24, 2025
こういう記事がありました。ウィキソースの「球陽記事」にもあるようです。https://t.co/f8yxNgmIgO
ありがとうございます、なるほど、モンゴルの名前をカタカナ表記する時に揺らいでいるのか…
— Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) (@gryphonjapan) 2025年10月24日
地保奴(ディボド)ーテイポヌじゃ、グーグルでも把握しきれなかったのでしょう。むしろウィキペディアに海賊×少女のことを盛り込んでおくかな
https://t.co/LMzlp2CIYH^284447649^802^^^60211001000501980004@@459986594#top
— にぐるた(K-52) (@niguruta) 2025年10月24日
台湾の中央研究院サイトで
漫画で挙げられてる明実録を調べた所、太祖(朱元璋)洪武21年7月6日の条で
"主次子地保奴"(天元帝の次男の地保奴)が琉球に送られた時の記述が見つかりました。元の治世への言及もあります pic.twitter.com/insvQmIej5
ja.wikipedia.org
地保奴(ディボド、生没年不詳)は、北元のウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)の息子で、モンゴル帝国の皇族。「地保奴」は明朝側からの呼称で、正確なモンゴル語名は不明[1]。ただし、18世紀以後に漢文史料の知識も交えて編纂された『アルタン・クルドゥン』などのモンゴル語史料では「テブー・ヌー(Tebuu nuu)」とモンゴル語表記されている[2]。
概要
地保奴の生い立ちなどについては記録がなく、その前半生については全く知られていない。1388年(天元10年/洪武21年)、藍玉を総大将とする明軍はブイル・ノール地方に滞在していたウスハル・ハーンの本営を急襲し、ウスハル・ハーンは軍勢のほとんどを失うを大敗を喫した(ブイル・ノールの戦い)。太尉マンジらの奮戦によってウスハル・ハーンと地保奴の兄の天保奴、知院ネケレイ、丞相シレムンら高官数十人は明軍の追撃を逃れることができたが、地保奴や前ハーンの妃など多くの皇族が明軍の捕虜となった[3]。
ブイル・ノールの戦いから3カ月後、藍玉が部下に送らせたウスハル・ハーンの次男の地保奴と后妃たちは応天府に辿り着いた。地保奴らは洪武帝に大元ウルスの金印・金牌を献上し、これを受けて洪武帝は鈔200錠と邸宅を与えて厚情を示した。それから間もなくして藍玉がハーンの后妃と密通したという噂が流れると、洪武帝は藍玉に対して激怒したものの、后妃は恥辱に耐えかねて自殺してしまった。后妃の死に対して地保奴が恨み言を漏らしていたことが洪武帝の耳に入ると、洪武帝は自らの厚情に対する恩知らずな言動であると怒り、これ以上内地には留めおけないとして琉球に島流しするよう命じた。これ以後の地保奴の動向について記録は残っていない[4]。
同じ頃モンゴル高原においてもウスハル・ハーンと天保奴父子がアリクブケ王家のイェスデルに殺害されたため、モンゴル高原におけるクビライ家の血統は一旦断絶し、モンゴルでは一時的にアリクブケ家よりハーンが輩出されるようになった[5]。
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臺北市 : 中央研究院歷史語言研究所, 民55[1966],中央研究院歷史語言研究所校勘 史/編年/明實錄/太祖/卷一百九十二 洪武二十一年七月/6日(P.2886) 錯誤通報
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○戊寅大將軍永昌侯藍玉遣人送虜主次子地保奴及后妃公主等至京公主等至京:抱本京下有師字。地保奴及后妃獻金印金牌金牌:嘉本金作銀。賜鈔二百錠命有司給第宅廩餼俾就居京師既而有言玉私元主妃事 上怒曰玉無禮如此豈大將軍所為哉元主妃聞之惶懼因自盡地保奴由是有怨言 上聞之曰朕初以元世祖君主中國時有恩及民不可無嗣嘗與儒臣議欲封地保奴以盡待亡國之禮彼乃如此豈可以久居內地於是遣至護送遣至護送:舊校改至作使。往居琉球仍厚遺
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