「ゴゴスマ」司会者の石井亮次氏の言葉で印象に残ったのでメモしておく。
甲子園球場の決勝に赤とんぼ…実況者の”正解”は?
最初の言葉は先週だったか…たぶん14日、あるいは16か17日だったかもしれない。
甲子園そのものの話題だったか、天気(猛暑)の話題だったか……昔は甲子園の決勝がおこなわれる時分には、甲子園球場に赤とんぼが飛んできた、という話から石井氏がこう続けた(大意)
「でもアナウンサーの実況は、その赤とんぼに触れるべきじゃないんですよ。赤とんぼは秋をイメージさせて、『夏の甲子園』にはふさわしくないから(大意)」
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……塩っ辛い汗と涙の葬礼行列の場面が続いたあとでの、沛然はいぜんとして降り注ぐ果樹園の雨のラストシーンもまた実に心ゆくばかり美しいものである。しかしこのシーンは何を「意味する」か。観客はこのシーンからなんら論理的なる結論を引き出すことはできないであろう。それはちょうど俳諧連句の揚げ句のようなものだからである。
映画「大地」はドラマでもなく、エピックでもなく、またリュリックでもない。これに比較さるべき唯一の芸術形式は東洋日本の特産たる俳諧連句である。
はなはだ拙劣でしかも連句の格式を全然無視したものではあるがただエキスペリメントの一つとして試みにここに若干の駄句を連ねてみる。草を吹く風の果てなり雲の峰
娘十八向日葵の宿
死んで行く人の片頬に残る笑えみ
秋の実りは豊かなりけりこんな連続コンチニュイティをもってこの一巻の「歌仙式かせんしきフィルム」は始まるのである。
が、言葉も、実写映画やスチル写真のカメラも、アニメや漫画の作画も、意図した情景を選択的に切り取って描写する。(その作為性には濃淡がもちろんある。たとえばカメラでの撮影には、さまざまなものが偶然映り込んで「情報量が多い」となったりする)
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実況とはつまり、即興で俳句や短歌に似た作業をするアートなのだろう。
だが、一方で、「事実」を伝えるのが実況、アナウンスなのに、そういう選択が実況の中で行われ、話者の「甲子園大会にはふさわしくない情景、現象、物体」は抹消されている……という話は、ジャーナリズムを考えるうえでちょっと面白い話でもある。
ホームランと言わずに本塁打を表現するには
これは7月ぐらい、いや開幕直前だったかなあ…高校野球ではなく大谷翔平の話題だったと思うけど。
オオタニサンの、その時の本塁打が放物線を描くすごく滞空時間の長いホームランだったか、或いは逆に超弾丸ライナーでわずか数秒だったか…どっちにしてもすごく珍しい打球で、アナウンサーはその滞空時間に合わせて言葉を選ぶから大変だ、という話になり、
石井氏が、かつての甲子園実況で印象に残った本塁打描写を語った。
「その人は
白球!
青空!
甲子園!!
…と、ホームラン、本塁打という言葉を一言も使わずにホームランを表現したんですよね。それがすごく印象に残っている」
ふむう。
くしくもこんな会話があって、
「細部まで書き込む必要がある」マンガに対し、小説は「文章でふわっとごまかせる」とは聞き捨てならないが、世間の認識はこんなものか。 https://t.co/LvBK4eecFG
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) August 22, 2023
やはり漫画と小説では、どこが「ふわっと誤魔化せる」か、どこが「きちんと描き込まないといけない」かが違うのでしょうね。
— 大西巷一:『星天のオルド タルク帝国後宮秘史』連載中 (@kouichi_ohnishi) August 22, 2023
アプローチが違うだけで、そこに優劣巧拙はないと思います。 https://t.co/0jpiJ3FoSD
ちょっと上の話を思い出した