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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

江戸時代、オランダ人からは「儒教は仏教に弾圧されている」と見られていた、という話。

やや古い時代の中公新書「ケンペルと徳川綱吉」読みました 。


ケンペルはオランダから、鎖国時代の日本、出島にやってきて、江戸参府もした人間のひとり。
基本的に商売に徹してたというオランダ人たちだが、やはり未踏の地をひとつずつ潰していくことを世界的な流行としていたこの時代。世界に門戸を閉ざしたこの不思議な、しかし間違いなく高度な文明を持つ地域を観察し報告しそれで世に名前を残そうと言う冒険的知識人たちは何人かいた。商館長でもあったチチングや、植物学者ツンベリー、言わずと知れたシーボルトなども有名だが、元禄時代徳川綱吉にも面会したこの「ケンペル」も、後に「日本志」を書き上げ、後進たちをこの世界…「日本沼」に導いた。


で、彼は日本に来たのは元禄時代。当時の将軍綱吉が大いに推進した「儒教」について、このように興味深い記述を残している。
古代ギリシャの哲学者やキリスト教の教えにも匹敵する思想だが、それゆえに仏教に弾圧されている・・・と。

ケンペルの著作を引用しよう。

無神論的哲学者である彼らは、礼を失するようなことにならない限り、偶像崇拝儀礼を行おうと欲せず、またこれに奉仕しようともしない。彼らは偶像崇拝する代わりに美徳を追求し、清らかな良心を持ち気高い生活態度をとろうとする。
儒教の教義はセネカの教えやキリスト教十戒にも比すべきものである。

キリシタン追放のために制定された新しい法律によって、彼らは自分の意思に反して家の中に仏像を置いたり、あるいは仏の名前を書いた紙を貼り、その前に香炉や花瓶を飾らなければいけなかった。その場合、用いられた仏像は大抵観音あるいは阿弥陀であった。
学問や芸術はほとんど儒者たちが育んできたし、またかつては国民の多くがこの宗派に属していた。だがいまや彼らは周囲から疑いの目で見られるにいたり、その数はキリシタン大弾圧の後、年々減少している。
セネカプラトンなどキリスト教徒でない哲人の書いた書物キリスト教のヨーロッパでもよく読まれているように、儒者の書物は今まで日本でよく読まれていたのだが今やこれらの書物が疑わしいものとみられるに至った。


江戸幕府儒教を弾圧したなんて聞いたことない。寛政異学の禁ならともかく…なんか翻訳の誤解でもあったんじゃない?

と思うかもしれないがさにあらず。


これはつまりキリシタン対策として宗門改めが行われ、すべての日本人に檀那寺が設けられた、あの制度のことを意味しているのであります。
これは実はあの時代に、ちょっとだけ芽が育ちつつあった、より純粋な儒教…いや純粋なと言うと違うかな、「日常における祭祀もふくめた、より広範囲で日常に密着した儒教」と言っていいか。
具体的に言えば「儒教式の葬式」。

そういうものを潰したわけであります。



江戸期の儒教は、積極的に「仏教DIs、仏教のライバル」的な部分があり、その結果として「葬式も儒教式に行う、坊主も寺も出番はないわ」という層が、知識人の中から出てくる。
そういう中には殿様もいて「儒学こそ正統、仏教なぞ野蛮なカルト集団」あつかいまでしかねない所も出てきた。備前岡山藩水戸藩も、会津藩も、儒教(あるいは神道)を藩主が推すがあまり、仏教の肩身がせまくなったりしたようだ。

これにストップをかけることになったのが宗門改め制度だったわけ。


当時の儒教の大学者にして、徳川綱吉の後を継いだ6代将軍。家宣のブレーンとして活躍した新井白石はこのこと(仏教の宗門改めと儒学者)について…何しろ幕府の大方針であるから表立って異議は唱えられなかった。


引退後、遠方にいるファンに対して俺SUGEEを書き綴った「本佐目録」の中で、こっそり批判したのだった。

宗門改制度を「夷をもって夷を制す」という中国の兵法を引き合いに出しながら「邪教(仏教)をもって邪教キリスト教)を駆逐しようとするものだ」と述べている。

その他の白石による批判をかいつまんで言うと

・本当の儒学者なら仏事などやりたくないのだが、完全に拒否すると天下の大禁を犯すことになる

・だから儒学者は、表面上は仏教徒として振る舞い、内心では儒教の教義にしたがう。

・だが、言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズン。これでは本当に正義を成すことはできない

…と慨嘆している。


そもそも新井白石
「自分の若い頃は儒教というものが独立した学問や思想であるということすら理解されず、儒教というのはキリスト教の仲間だぐらいに思われていた」と言う。綱吉様のおかげで、儒教がきちんと儒教として扱われた…(白石は6代将軍のもとで、5代綱吉の政策をいろいろ引っ繰り返すなどし、自分の宣伝も兼ねて「悪夢の綱吉政権」キャンペーンをおこなったひとりだが)

白石はこの「儒教キリスト教」デマを広めたのは仏教徒ではないかと疑っている。


本来的には存在していたはずの仏教と儒教の思想的な摩擦対立。

それをオランダ人のケンペルが客観的に外から眺めて記録していたというのがなんとも面白い、歴史の皮肉というわけです。

ただ、逆に言えば、思想的には対立してしかるべきだし、祭祀権をめぐって本来なら「それを言ったら…戦争だろうがっ!」となるはずの両者の関係を、むりくり世俗の力で「うやむや」にして戦争を回避した幕府世俗政権の巧妙さと和平への情熱を、高く評価するという視点もありましょう。