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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「ファンタジーのお約束」の共有・パロディ化の歴史を「n kaiho」氏が考察した記事

nkaiho.hatenadiary.org


こちらの記事、ありがたいことに当方の5年前の記事
m-dojo.hatenadiary.com

への「アンサー」として書かれたものだそうです。
コメント欄にてお知らせいただいた。

id:nkaiho
5年前の記事に恐縮ですが、興味深いものでしたので、自分の考えをまとめさせていただきました。ご笑覧ください。

5年前の記事にアンサーを頂けるのはありがたいことである。このへんは、どんな重要ツイートもどうしても「流れがち」になるtwitterより役立つ。
もともと最初の記事が、問いを投げっぱなしにするスタイルの記事だからね(笑)



内容も非常に興味深いもので

さて、日本におけるファンタジーの受容が「ゲームの不条理な部分に対する大喜利」と書きましたが、視点を広げると、これは、ゲームそのものがもつ性質とも考えられます。

 ゲームというのは、プレイヤーに様々な可能性、選択肢、視点を与えます。例えばファンタジー小説だと「世界を救うための勇者」はかっこいいものとして描かれますが、これをゲームにして遊ぶと「無謀に突撃して、全滅しまくって王様に怒られる勇者」とか、逆に「ひたすらスライムだけを虐めるセコい勇者」「死ぬ寸前まで(HPでも1)元気な勇者」とかがプレイ体験として生まれる。「ファンタジー小説の勇者」に対するパロディが自然と発生します。

 要するに、ネタ元が「かっこいいファンタジー小説」であっても、それをゲームにして普通のプレイヤーが遊んでいくと、それだけで「勇者ヨシヒコ」っぽく…(後略)

物語を、「ゲーム化」すると、それは必然的にお約束(テンプレ)の抽出になり、またゲーム内で「パロディが自然と発生」するという、この構図。このへんはゲームの実体験がないと分からない部分であるだろうなあ。



ところで、このかたのid は 「nkaiho」。
ブログタイトルは『避け作家の隠れ家』だ。
nkaiho、・・・・・N.KAIHO・・・・・・・・・・・・・・・うむ、これ以上はヤボになるので、突き詰めないことにしよう