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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「私が信じ続けた思想は間違いだったか…」 ベルリンの壁崩壊30周年に際しての雑感

ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌日1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)ともいう。

これにより、1961年8月13日のベルリンの壁着工から28年間にわたる、東西ベルリンが遮断されてきた東西分断の歴史は終結した。東欧革命を象徴する出来事であり、この事件を皮切りに東欧諸国では続々と共産党政府が倒された。そして、翌年1990年10月3日に、「ドイツ民主共和国に再設置された各州がドイツ連邦共和国に加盟する」という名目(実質的には編入)にて、東西ドイツの統一がなされた。
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学校から帰ってきたら、夕方のニュースで放送されていた、と記憶している。
平成が始まった30年前、1989年というのは本当に掛け値なしに「激動の時代」で、今でも昭和天皇崩御、政治経済ではリクルート事件と消費税開始とバブル景気、犯罪ではコンクリート詰め殺人と宮崎勤事件、訃報では美空ひばり手塚治虫…とそらで言える。そして、「ひとつながり」として今の年表には載っているかもしれない、東欧での地殻変動のような社会主義体制のドミノ倒しがあった。
だが渦中では、デモや反体制運動や、権力側の譲歩が五月雨式に続いていて、まあ変革はあるだろうが、徐々に徐々に変わっていく形なのだろう‥とは思っていた。そんな中、一夜にして、東西を壁が隔てていたベルリンで自由往来が実現、東ベルリンと西ベルリンの市民が壁の前で抱擁し、(分厚い壁にそれをしても意味は無いものの)ハンマーでちょっとばかり壁を砕いていた光景は忘れがたい。
当時の映像で振り返る
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こうなった理由が、ある高官の「勘違い」であるという人間臭さがあったり

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BBC News Japan
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1989年の「ベルリンの壁」崩壊につながる発表を予定より早く行ってしまった元東ドイツ高官が1日、ベルリン市内で死去した。86歳だった。

1989年11月9日、この日エゴン・クレンツ率いる社会主義統一党中央委員会総会で翌日から施行予定の出国規制を緩和するための新しい政令案を決定した。その日の夕方、クレンツ政権の広報担当者シャボフスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。シャボフスキーは、中央委員会の討議には出席しておらず、クレンツからも細かい説明もなく、また中央委員会で攻撃に曝されていたことで、クレンツ政権内部が混乱したことがその原因とされる(ベルリンの壁崩壊)。

この記者会見を各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などが報道し、同日夜には東ベルリン市民が東西ベルリン間の7カ所の国境検問所に殺到した。旅行自由化の政令は実際は査証発給要件を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで査証が必要であったが、殺到した市民への対応に困った国境検問所の国境警備隊の現場指揮官は、政府からの指示もなく、11月9日午後10時45分に止む無く国境ゲートを開放した。査証の確認なども実行されず、ベルリンの壁はこの時に崩壊した。


また、ヨーロッパ・ピクニック計画と言われる壮大なプランも背後にあった。この首謀者の一人が「オーストリア帝国最後の皇太子」オットー大公で、彼は日本の大物転向右翼・田中清玄の盟友であった、という因縁もあり。

オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子であるハプスブルク=ロートリンゲン家当主のオットー・フォン・ハプスブルクは、デブレツェンの大学で講義を行った。その日、オットーを歓迎する夕食会で、デブレツェン在住の民主フォーラム活動家メサロシュ・フェレンツが、ハンガリー鉄のカーテンによる分断から解放されたことを祝おうと冗談を言ったところ、周囲の出席者からは様々なアイディアが出てきた。

その中から、オーストリアハンガリーの国境地帯でたき火をしてバーベキュー・パーティを行い、ハンガリー人とオーストリア人が、国境のフェンスを囲んで食べ物を交換し合うことで、ヨーロッパの東西を分断するフェンスが、地理や歴史(オーストリアハンガリーは20世紀初頭まで同じ国家だった)を無視している事実を世界に示そう、という案が出たのである[5]。

この話で夕食会は盛り上ったが、その時はパーティの席での冗談であった。メサロシュが夕食会の10日後に、民主フォーラムの会議の席上でこの話をした時も、多くの出席者は冗談と受け止めたが、フィレプ・マリア(英語版)という女性は、これを本格的に実行することをメサロシュに提案し、2人で準備を始めた。
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そんな、こんなであるが…。

実は当時は、まだ「社会主義を信じている」ひとがいた時代でもあったんです。

これはフィクションからの引用だが、間違いなく時代の風景を反映した一場面である、と(まだ少年だったのに、そういうのも失礼だが)「同時代人」として証言しよう。

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ベルリンの壁が崩れたとき「私が50年正しいと思っていたことは間違いだったかもしれない」よしながふみ「愛すべき娘たち」より
愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

ただし、こんなに(思想的な)出処進退がいさぎよかった人、というのはフィクションだろ?と問い詰められれば、まあそこは(笑)。


このコマ、実はフライングでことし5月下旬に紹介した。そう、上ではあえて述べなかったが、1989年でベルリンの壁崩壊30年ということは、そのまま中国・天安門事件30年なのだ。およそ5か月前。
その話も書いたっけかな。この時、今と違ってビビットに一番の注目の問題を扱っていた「朝まで生テレビ!」は、「衝撃!天安門 どこへいく社会主義?」というテーマですぐに討論を行った。ようやっと、ビデオが入った我が家(遅いよ!)では、この番組を見ることが出来た。

今では出演者の多くの人が鬼籍に入った…そらで挙げるぞ、大島渚西部邁小中陽太郎野坂昭如小田実渡部昇一、上田哲、上田耕一郎加藤紘一………といった面々だ。ちなみに存命の方は辻元清美舛添要一などがいる。
その中に、左翼運動家界隈では有名だったらしい御仁として、これも故人の安東仁兵衛というひとがいた。
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上田耕一郎とは当然かつては「同志」だったが、あれやこれやそれやがあって、党としてはたもとを分かったが、それでも大枠では左派陣営。その彼は、1989年においても「マルクスは私たちの指導理論だけど、これを相対化して指導理論”のひとつ”にはできないか?」と共産党の上田議員に提案するとか、そんなことが巨大なテーマになっている、化石のようなアレだったんだけど、番組終盤において、「それでも社会主義を私は信じる!」的な決意表明をきっぱりと、覚悟した顔で言っていた…と記憶している。
とてもそれに賛同するわけにはいかないが、その「覚悟」に、一種感動的なもの、敬意を払うべき雰囲気があったことは覚えている。そして…その少し前かそのあとだったか、「激論日本の右翼」という、またこれも話題沸騰した回が同年にあって、

激論!日本の右翼 (朝まで生テレビ!)

激論!日本の右翼 (朝まで生テレビ!)

その時の老右翼と、安東という老左翼の雰囲気が、また似ていたんだ。いかにも、さもあろう。

このへんの、朝まで生テレビが活字化された古い本を買っておきたくもある…だが、だれか、動画を持ってないかなあ。自分もビデオは、実は保存しているはずなのだが、絶対に白カビまみれでものの役にたつまい。
動画を持っている人が、youに  をチューブで…たらなぁ…(チラッ)。いや、かつての朝生は研究資料としてどこかに見られる環境があるべきだ!!!!!!!

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余談が過ぎたけど、だから、「当時は社会主義をガチで信奉してる人がまだいた。そして、1989年の天安門事件ベルリンの壁崩壊をはじめとする東欧革命で、その旗をようやく降ろした、って人も多い」。
ここ持ち帰ってください。ちなみに、当時、そういう陣営は「革新」という言い方が一般的だが、その旗を降ろして、ちょっと軍服を着替えて「リベラル」に模様替えした人も多い。模様替えっていうか便衣兵っていうか(笑)。
いま、「革新勢力」という言葉は実際に新聞テレビなどでも使われなくなり、それどころか定義もあやふやになり、実際に若者にアンケートを取ると、「革新」のイメージは「維新の会」になるんだとか。


しかし、そういう中には、「殉じた」人もいた。
いや、この人の最後の消息不明を「マルクス主義に殉じた」とかいうのは、あまりに美化になってしまう、とは思うし、1984年の話でもある(その時期に、この思想とそれをもとにした体制の終わりを見ることも、十分あり得るのだが…)

マルクスに凭れて六十年―自嘲生涯記 (1983年)

マルクスに凭れて六十年―自嘲生涯記 (1983年)

岡崎次郎 - Wikipedia

晩年
1983年に青土社から出版した『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記』という自伝で向坂を批判。本書を友人・知人らに献本し、さりげなく別れの会を持った岡崎は、「これから西の方へ行く」という言葉を残して、80歳となった翌1984年6月6日からクニ夫人とともに死出の旅に出た。

全ての家財を整理し、東京・本郷の自宅マンションを引き払った夫婦の足取りは、品川のホテルに投宿したのを皮切りに、伊豆の大仁温泉・浜松・京都・岡山・萩・広島などを巡ったことがクレジットカードの使用記録から確認された。そして同年9月30日に大阪のホテルに宿泊したのを最後に足取りが途絶え、現在でも生死は確認されていないという。

きけば、やはり、なにかこころ哀しいものである。
そのひとと大きな因縁があった向坂逸郎は1年後に亡くなった。89年を見ないで済んだのは、逆に幸せか。
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その向らが主導した、社会党の「社会主義協会」で”大暴れ”(精一杯の婉曲表現)した、ソ連東欧を崇拝し、ずるずるべったりの癒着関係を持っていた大物国会議員が「高沢寅男」氏など。まあこういう人がいたから、逆説的だが自社連立まで社会党は「野党・社会党」であり続けた、そういう人だった。
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最近、この人の秘書が、津田大介氏の父親だということを氏が語ったりして、名前を懐かしく思い出したりもした。



しかし、それらもすべてが歴史に、なろうとしている。
すべては、歴史の前にひれふす。


また、「ベルリンの壁」の悲劇は、少し間違えば日本のあり得た歴史、だったかもしれない…ということを、SF=「すこし・ふしぎ」な観点から再確認もしてみたい。
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