「天皇の名において全プロレタリアートにむかって、ゼネストを呼びかけてみたら」という花田清輝の発言を先日ちくま新書で引用したが、そうだった、天皇はたったひとりでもゼネストが決行できるのだった。
— 浅羽通明☆われは生まれて町に住み (@asabam1) 2016年7月21日
たったひとりでもゼネストが出来るお方の、ゼネストしたいなぁ発言は、実に7月14日に表明されたのだった。あの方の世代にとってこの日は、往年のフランス映画「パリ祭」で知られる。そうなのだ。よりによって革命記念日にぶちまけちゃったのである。
— 浅羽通明☆われは生まれて町に住み (@asabam1) 2016年7月21日
「個人の尊厳」なる観念が日本国憲法の中にしか存在しないわが国では、辞退とか辞任とかを自らの好悪を理由に言い出すのは社会人として許されぬ。子供が…とか老親が‥とか上司や部下が…とか迷惑する方が…といった根拠が必要だ。天皇陛下すらこの例外ではない。否、彼こそ最もこれに呪縛されている。
— 浅羽通明☆われは生まれて町に住み (@asabam1) 2016年7月21日
加藤典洋だかが指摘していた。職の進退などにつき個人の自由意志がわがままとみなされ認められない日本の組織では、ただ「体調が悪い」という理由だけがかろうじて認められるという。体調は、意志ではないからだろう。天皇陛下すらこの例外ではない。否。全国民よりはるかにその呪縛下にあるのだ。
— 浅羽通明☆われは生まれて町に住み (@asabam1) 2016年7月21日
自由意志ではだめで身体不調ならばよいのは、養老孟司流にいえば「脳」ではだめで「自然」ならよいというわけだろう。天皇はかつて天子であり「自然」の側だった。身体も意志もすべて「自然」だったのだ。ゆえに裕仁氏は最後まで象徴職務に耐えた。しかし明仁氏は違った。彼の意志は「脳」の側だった。
— 浅羽通明☆われは生まれて町に住み (@asabam1) 2016年7月21日
平成史とは天皇制の衰退過程に他ならない。裕仁氏は「皆」といったが明仁氏は「皆さん」といった。美智子妃殿下は「宝島30」の記事ごときで声を失い、徳仁氏は宮中にも世論にも関わらず愛妻をかばった。そしていま明仁氏が身体不調ゆえの辞意を自らの「自由意志」で訴えている。
— 浅羽通明☆われは生まれて町に住み (@asabam1) 2016年7月21日